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こうした映画が撮られることは、人間の良心を信じて良い証だろう。 原爆から60年の月日がたち、被爆者の高齢化がすすんでいる。 彼(女)等が死んでしまえば、原爆が人間に使われた事実を伝える証人がいなくなる。 日系二世の監督が、被爆者などにインタビューしながら、この映画を完成させた。
この映画はドキュメントであり、語り見せるものは事実である。 映画という表現は、事実と虚構の区別を教えない。 映画製作者の意図は、充分に分かるし、当サイトも原爆に反対である。 しかし、この映画は原爆や、戦争に何の影響も与えないだろう。 見終わったあと、無力感が残るのも事実である。 この映画に、映画表現としての完成度を云々しても、無意味であろう。 それはよく判るのだが、戦争や大量破壊兵器の使用は、この映画がよって立つ場所とは無関係だろう。 イラクへの侵略にしても、ブッシュを選んでしまった、アメリカ国民の責任としか言いようがない。 映画は大衆を相手にしたもので、大衆時代の表現ではあるが、やはり表現である以上、個人的なものでしかない。 吉本隆明氏が「100本対101本のゲバ棒ではなく、1つの表現を掲げると、全員がひれ伏すような」というようなことを言っていたが、結局それも幻想だった。 表現とは時代や社会を理解するものであり、変革や政治的な行動を促すものではないだろう。 それは映画とて同様であり、いかに政治的な主張が強くても、映画が表現である限り、映画の射程は政治領域へは届かない。 優れた表現は、個人の内面に沈潜し、やがて個人を政治的な行動へと駆り立てるかも知れない。 しかし、それはもはや映画の位相を越えたもので、表現ではない。 表現は時代や社会の切開であり、腑分けの仕方が優れていれば、その表現は長く広い射程をもつのだろう。 個人の良心は信じるが、政治領域は個人的なものではない。 両者は位相が違うものだ。 この映画を表現として評価することは、この映画がめざすものではないだろう。 政治的なメッセージとしての映画だと思うが、政治的なメッセージとしての映画が成り立つか、最近どうも疑問に感じている。 もちろん、上記のように言ったからといって、この映画を否定するつもりはまったくない。 アメリカ人の監督が、日本にも来てよく調べ、丁寧につくっている。 しかし、戦争の悲惨な記憶を鮮明に維持しても、戦争を始めるときは始めるものだろう。 戦争の悲惨な記憶を維持すれば、戦争が防げるかにいう人がいるが、そんなことはないとしか言いようがない。 2007年のアメリカ映画 (2007.9.10) |
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