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現代的な主題を扱っているが、暗く重いトーンで、しかも2時間半の映画だから、見終わるとドッと疲れた。 大人になれない今の人間たちを描いて、さも説得力があるように思わせるが、懐古的で保守的な主張を感じる。 もはや時代はこの映画のレベルは、越えているのではないだろうか。
ボストン郊外の住宅地へ、サラ(ケイト・ウィンスレット)夫婦が引っ越してきた。 サラは専業主婦である。 サラは1人の子供を育てるだけ。 他に何も仕事はない。 子連れで公園デビューするも、ほかの3人の主婦たちと親しくなれない。 彼女も専業主婦でありながら、他の専業主婦とは何かが違う。 彼女はなぜ違うのか、ここが描かれていないから、説得力が欠けてしまっている。 公園に通い始めて、何日がか経過したとき、ブラッド(パトリック・ウィルソン)という男性が、子連れで公園に登場する。 4人の専業主婦たちは、若い男性の登場に、ブロム・キングとあだ名して色めき立つ。 サラ以外の主婦たちは、ブラッドに興味はありながら、専業主婦のお約束をきっちりと守る。 結婚した以上、他の男には手を出さない。 サラは違った。 夫に満たされないところがあったのだろうか。 彼女はどんどんとブラッドに引き込まれていく。 子供連れのプールで大雨に当たった日、とうとう2人は肉体関係へとすすむ。 一度関係ができると、2人は欲望を止めることはできなかった。 子供をダシに、何度も肉体関係を持った。 妻が働く昼間は、彼が子供の世話をしていた。 そして、夜になると図書館へと、試験勉強にいっていたはずだった。 しかし実際は、図書館に向かうが、途中でぼーと時間をすごし、勉強はまったくしていなかった。 今年も合格の可能性はない。 サラのほうは、状況設定がよくわからない。 稼ぎの良い夫をもちながら、彼女は夫に興味がないらし。 夫はアダルト・サイトの常連で、オタクなところがあるが、あの程度のことは、それほど異常なことではないだろう。 おかしいのは、立派なサラリーマンでありながら、女物のパンツを頭からかぶるという、チグハグさだけであろう。 性的な関心が、常軌を逸した行動として表れるのは、子供や肉体労働者にではない。 観念をあつかう仕事に従事するから、誇大妄想になるのだし、性的な関心が肥大するのだ。 背広姿の立派なサラリーマンは、性欲が薄いとすら思われがちだが、性欲が非常識的な現れ方をするのは、むしろ頭脳労働者である。 しかし、彼等はオタクであり、対外的な危害はない。 それにたいして、やや病的な性的異常者ロニー(ジャッキー・アール・ヘイリー)が登場する。 母親と住む彼は、未だに独身である。 ロニーは同じ歳頃の異性にではなく、小さな子供にしか性欲を感じない。 明らかに性欲の変形表現だろう。 アメリカではロリコンは重罪である。 彼には前科があり、現在は保護観察中である。 子供を抱えた親たちは、ロニーの登場に戦慄する。 とりわけ元警官のラリー(ノア・エメリッヒ)は、執拗にロニーを攻撃する。 大人の男の性的な幻想を否定的に描き、大人の男女のするセックスが正しい、という主張を前提にしながら物語は進む。 ブラッドには妻子があり、サラには夫子がある。 2人は本来なら他の主婦と同様に、結婚制度からでてはいけないはずだった。 しかし、2人はセックスに溺れていく。 とりわけサラは何度も求め、セックスを堪能する。 2人は家出を考え、ブラッドは子供をおき、サラは子連れで実行に移す。 2人が落ち合う場所だった公園に、ブラッドは来ない。 彼は途中で子供たちと遊んで、スケボーをやって大怪我をしてしまう。 1人で待つサラは、公園に現れたロニーに驚愕し、子供をかばおうとするが、子供が見あたらない。 やっと見つけると、子供を守ることが自分の使命だと悟り、家出を取りやめる。 ラリーの執拗な攻撃は、ロニーの年老いた母親を、死に追いやってしまう。 母親を失ったロニーは、自己嫌悪に陥っていく。 母親の最後のメッセージが、「Be a good boy」だっとことから、彼は自分の性器を切断してしまう。 出血多量のロニーをラリーが救おうとするところで、映画は終わる。 他人の伴侶には、いくら興味がわいても手を出さなかった。 家が生産組織だった時代には、家から出たら誰も生活できない。 だから、結婚制度を守ったのだ。 そして、道徳は男女の不義を認めなかった。 それに比べれば、たしかに現代人は、欲望のままに行動しがちである。 現代社会では、家は生産組織ではない。 対にならなくても、生きていける。 男女は独自に生活できる。 今や個人が生産組織の単位である。 だから、愛情の冷めた結婚は、個人の行動を拘束するものでしかない。 個人の欲望が肯定されれば、男女は婚外のセックスを貪る。 まさにサラがそうだった。 しかし、子供は大人の保護が必要である。 大人たちが自分の欲望に耽溺するとき、子供はいる場所がなくなってしまう。 結局、この映画は、子供を守れといって、大人たちの欲望を否定していく。 しかし、経済力のない者が、子連れで駆け落ちしたら、いくら大人になりきれない2人であっても、その先がどうなるかは判るだろう。 ブラッドが働いたとしても、子連れの2人には厳しい生活が待っている。 現在のような裕福な生活は不可能である。 以上のような背景を考えれば、この映画が描くのは、きわめて難しい関係だと言える。 というより、あり得ない関係だろう。 浮気することはあるだろう。 しかし、子連れの駆け落ちへとは、進まないだろう。 むしろこの映画は、子供の存在に目覚めて、駆け落ちをやめるところに主題がありそうだ。 子育てを担保に大人欲望を否定し、家や結婚へと閉じこめるのは、過去への回帰以外の何ものでもない。 ここでは女性の自立は、すっかり忘れられている。 優れた映画は、大人たちの欲望を肯定し、女性の自立を支持する。 そして、個人としての大人を解放したうえで、子供を上手く取り込んでいく。 子育てはもちろん大切だが、子供を優先したら、核家族から単家族への転換は進まない。 単家族化しなければ、情報社会の発展はない。 今後、子供の存在が焦眉の急だとは、全員が知っている。 だから、今世紀の映画は、子供が主題になった。 しかし、この映画のように、旧に戻すことは人間の解放を否定することである。 それでは子供にも悪い影響がある。 望まれる展開は、子供の自立であり、大人が子供側へ迎合することではない。 2006年のアメリカ映画 (2007.8.1) |
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