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この映画は、1964年にニューヨークのカトリック学校で、実際におきた事件をもとにしている。 カソリック批判の映画で、撮られるべくして撮られた映画であろう。 南米などを見るまでもなく、カソリックは支配体制と癒着して、庶民に大きな害悪をはなっている。 つい最近も、アメリカの神父が、子供にホモ行為をおこなっていた、と問題になった。
カソリックの神父は、女犯をのぞいて、一切の快楽が許されている。 この映画でも、主人公のフリン神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)は、酒を飲むしタバコも吸うし、甘いものも嗜好品も贅沢な食事も、なんでも享受していた。 そのうえ、太った女性への蔑視的な発言もあった。 神父は独身でありさえすれば、享楽的な生活を送っても良いのだ。 セント・ニコラス・カトリック学校に、ドナルドが初めての黒人生徒として入学してきた。 彼は黒人であるがゆえ、何かにつけて虐められていた。 自由な時代を謳歌するフリン神父が、ドナルドをかばって力づけていた。 しかし、その親しさが廻りからは、少年愛=ホモではないかとの疑惑を招いた。 ドナルドの担任だったシスター・ジェイムズ(エイミー・アダムス)が、校長のシスター・アロイシス(メリル・ストリープ)に疑惑を伝えたので、話が大きくなった。 スキャンダルとばかりに、フリン神父の追い出しにかかる。 彼がドナルドとホモ関係を犯した証拠はない。 あるのは単なる疑惑である。 校長はフリン神父の前任校へ電話をして、事情を聞いたという嘘まで使って、徹底的に疑惑を追求する。 相手が虐めの対象だった黒人少年であるため、フリン神父の行動は弱者への庇護にも見えた。 しかし、まったく証拠はないにもかかわらず、疑惑だけでフリン神父は追いつめられていく。 ドナルドもドナルドの母親(ビオラ・デイビス)も、問題を大きくしたくない。 むしろフリン神父との関係を、続けても良いとさえ思っている。しかし、校長はホモを許さない。 ホモという少年への性的な嗜好は、性欲の問題ではなく、一種の病気である。 彼を放置すれば、必ず再犯すると確信する校長は、どんな手段を使ってもフリン神父の放校を謀る。 校長は抗争に勝って、フリン神父は転校することになる。 しかし、彼女はその後、彼が主任司祭へと出世したことを知る。 性愛を否定する宗教は、必ず逸脱者を生み出す。 カソリックはバチカンの廻りに私生児を生み出したし、日本の天台・真言といった密教は、門前に尼寺を誕生させた。 女犯が禁止されているにもかかわらず、宗教家たちは教義が守れない。 それでも宗教家は教壇から、信者たちに信仰を守れと教える。 聖書は同性愛は否定しているが、少年愛には言及していない。 そこで、女犯を禁止された司祭は、少年を寵愛し自らを慰めてきた。 前近代では、司祭の寵愛を得た少年は、カソリック教団での出世の道が開けたと喜んだであろう。 しかし、年齢秩序の崩壊した近代社会では、少年愛は絶対の悪なのだ。 それはカソリックの組織をも放置しなかった。 少年愛は犯罪である。 現世の規律の変更が、宗教界の規律を変えたのだ。 かつては未成年者との性愛は、対少女であれ対少年であれ、否定されていなかった。 前近代では生理・精通があれば、セックスをしても許された。 そうした背景があったから、教義上、女犯を禁止された神父は、少年を愛した。 前近代では、成人男性が少年を愛することは、プラトンの「饗宴」を持ち出すまでもなく、どこでも普通にあった。 我が国の男色が、少年愛だったことは周知であろう。 そして、陰間の得意客が、僧侶だったのは有名である。 高齢者のもつ知恵を、後世に伝えるためには、年齢秩序の尊重が不可欠だった。 少年愛は知の伝統を伝える行為として、前近代社会にきわめて適合的だった。 だから、少年愛は肯定された。 近代になると、知の伝達に年齢秩序は不要になった。 むしろ、高齢者のもつ旧来の価値観は、新しい時代の発展を阻害する。 そのため、成人男性が年少者を愛することが、許されなくなってきた。 例え女性に対してであっても、ロリコンは犯罪となったのである。 そこで少年愛も否定されるのは、当然の成り行きである。 近代社会での知の伝達は、肉体を通しておこなわれるのではない。 知の集積物である教科書が、後世への教育となった。 知が人間から離れて、知だけで自立したと言ってもいい。 老人の口から教えを聞かなくても、近代文明は発展する。 経験にしばられた老人の言葉は、むしろ進歩を阻害する。 高齢者が優れているという年齢秩序はあってはならない。 加齢という属性は、より優れた知性を保証しない。 むしろ、年少者たちの自発性や創造性を喚起すべき、と考え始めた。 だから高齢者は遠ざけられ、年少者への性愛は禁止され始めた。 カソリック教団も近代社会に生きる以上、近代の知の伝達方法から逃れることは出来ない。 当該の社会から逃れると、組織の後継者がいなくなってしまう。 組織の永続をねがえば、どんな組織も社会の規律を無視するわけにはいかない。 カソリックも女犯禁止にくわて、少年愛も禁止せざるを得なくなった。 古いカソリック教団は、女犯には厳しいが、いまでも少年愛には無自覚である。 だから、しばしば少年愛事件がおきる。 カソリックは少年愛に寛容だから、少年愛をやった神父は、何も問題がないかのごとく出世していく。 しかし、女性であるシスター・アロイシスは、少年愛を許すはずがない。 少年愛の許容は、男性支配の許容でもある。 シスター・アロイシス校長のように、学校支配を指向する女性が、少年愛を許すはずがないだろう。 この映画で、疑惑を追及するのが、女性でなければならない理由があるのだ。 元来、女性は少女愛をしなかった。 たとえ女性による少女愛があっても、女性文化は主流ではなかったから、問題にされることはなかった。 近代は男性支配が、より強化された社会である。 だから、女性は男性の支配下におかれ、男性の少年愛だけが問題視されたのだ。 女性であるシスター・アロイシスは、男性支配の論理である少年愛の否定を使って、男性のフリン神父を追い込んでいった。 世俗の組織に属する人間なら、フリン神父の行為は、シスター・アロイシスによって死命を奪われただろう。 どこも古い宗教は、完璧な男性支配の世界である。 カソリックでは司祭は男性だけ。 女性は司祭になれない。 カソリック教団は、いまだに男性支配の組織である。 だから、フリン神父は少年愛スキャンダルをものともせずに、出世していったのである。 女性のシスター・アロイシスが、絶望するのは当然である。 2008年アメリカ映画 |
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