タクミシネマ =@         ラースと、その彼女

 ラースと、その彼女    クレイグ・ギレスビー監督

 何とも奇妙な映画だが、観念の肥大した現代には、もっとも適った主題である。
シャイな男ラース(ライアン・ゴズリング)は、女性と仲良くできない。
女性の手が彼の皮膚に近づくと、痛くてたまらなくなる。
そのため、いまだに1人者である。


ラースと、その彼女  [DVD]
IMDBから
 母親が彼を出産したときに死んだので、それがトラウマとなっているらしい。
父親一人で、兄のガス(ポール・シュナイダー)とラースを育ててくれた。
兄のガスは、気むずかしかった父親の元を離れ、ラースが1人で田舎の家に残った。
父親の死後、ガスが奥さんを連れて戻り、ラースはガレージに住むようになった。

 映画はここから始まる。
ガスの奥さんのカリン(エミリー・モーティマー)は妊娠中でも、ラースのことが気になって仕方ない。
何とかうち解けてもらうとするが、ラースはとりつくしまがない。
そんなある日、ラースは精巧なダッチワイフを、自分の恋人だと紹介する。


 ラースがおかしくなったと心配した兄夫婦は、医師や地元のコミュニティに相談を持ちかける。
しかし、ラースは、人形にビアンカと名付けて、まるで本物のガールフレンドのように扱う。
最初は戸惑ったガスたちだが、バーマン医師(パトリシア・クラークソン)の助言もあって、ラースの思い通りに対応する。

 ラースが恋人だと思うのなら、本物の恋人のように対応を始めたのだ。
村の人たちも、まったくいつもと変わらない対応で、変人になってしまったラースを暖かく迎え入れる。
たしかに、恋とはフェティッシュな心理である。
相手が人形であっても、その当人には変わりはない。
たんに少し変わった趣味の持ち主になったに過ぎない。

 愛情とはフェティシズムの現れである。
そう考えれば、現代社会の観念支配が優位する現象はすべて了解できる。
人間とそれ以外のものに線を引きたがるが、当人から見れば、その精神状態は同じ働きである。
人間を含めてすべての物質は、0と1でできているのだ。

 観念が自立した社会での、男女の愛情のありかたを、この映画はシャープに描いてみせる。
そして、愛情のあり方が、子供の時代の体験から形成される、という。
自分の命と引き替えになった母の死、無口な父親と孤独な青春時代、ラースは愛情を育てる経験をもてなかった。
そのために、女性に近づけないのだ。

 この映画では、爆発もないし、何も壊れない。
派手な外国でのロケもない。
有名俳優も出演していない。
濃厚なベッドシーンもない。
CGも使われていない。
何もない映画である。
おそらく田舎の民家を使っただけの、オールロケで撮った映画だろう。
ほんとうに安くできている。


 現代を鋭く捉える主題のこの映画に、本サイトは星を献上する。
我々の行動は、すべて観念が支配している。
愛情だって観念の表現に過ぎない。
精神活動という観念のあり方が大切なのだ。
観念の現れ方が変わると、人は変人とレッテルをはって、ひどいときには病人と扱う。

 ラースがダッチワイフを恋人とみても、誰にも迷惑がかかるわけではない。
にもかかわらず、人はラースをキチガイと見がちである。
この村の人たちは、とても寛容だった。
教会に集う人たちは、ビアンカをラースの恋人として受け入れる。
そして、実物の人間と同じように扱いだす。

 物であるビアンカが、人間と扱われ始めると、ラースはビアンカを独占できなくなる。
ビアンカも1人の人格だから、彼女独自の時間があり、精神活動がある。
ラースはビアンカに自己投影していたが、それが許されなくなる。
ビアンカは恋人であると同時、村人の1人でもあるのだ。

 ビアンカを人間と見なすここが、この映画の主張だろう。
恋心はフェティシズムだが、フェティシズムの相手にも人格があり、相互関係なのだ。
相手が物であれば、自己意識の投影だけで済んでいるが、それを主体として扱うと、投影され意識が跳ね返ってくるのだ。
だから、ビアンカを独占はできない。

 愛情は観念だといっていたが、それは一方的な方向性だけではない。
ビアンカが村人たちに受け入れられていくにしたがって、ラースはビアンカから離れていく。
ラースは観念の相互作用に気づき始める。
とうとうビアンカを病死させ、埋葬することによって、一方的だった観念が相互作用だと知る。

 バーマン医師の助言のなかで、ビアンカはラースの妄想だ、というセリフが何度もでてくる。
たしかにどんな観念も、すべて妄想なのだ。
妄想がなければ生きていけない。
変わった妄想を持っていても、異物として排除するのではなく、普通に対応すればいいのだ。

 ガスの奥さんカリンを演じたエミリー・モーティマーが、抜群に上手い演技だった。
原題は「Lars and the Real Girl」である。
2007年のアメリカ映画
(2008.12.25)

 この映画を見てすでに1週間近くが立つが、この映画のことがなかなか頭から離れない。
ダッチワイフまがいのビアンカの扱いが、終盤にかけて、まるで人間のようになっていった。
フェティシズムの対象でしかないダッチワイフを、人格と扱うことによって、村人たちの人間関係のなかに持ち込んだ。
ビアンカは小学校では子供たちに本を読んで聞かせるし、ボランティアもやってみせる。
村人たちは、ビアンカを1人の女性として扱い、そのために、ビアンカはラースから離れてざるをえなくなった。

 ビアンカが自立していくに反射して、ラースも自立していく。
観念が物にたいするのと人間にたいするのでは、どのように分化していくのか。
まだ良くつかめないが、ここには新しい人間関係の原理が隠れているように感じる。
子供が育ってくる過程で、物としての親から、愛情という観念を受けとる。

それを自分の観念とどう絡めてくるのか。
そして、対人関係をどう形成していくのか。
なんだか原理的な思考がなされている映画に思えてきた。
(2008.12.29)

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