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フランス映画だから、あまり期待しないで見に行った。 しかし、とても良い。 無条件に星を献上する。
アメリカに渡ったけれど、売れなかった女優のジュリー・デルピーが、監督、脚本、製作、編集、音楽、主演をてがけた。 個人が背負ったから、良い映画になったのだろう。 フランス映画は、しばらく立ち直れないだろう、そう確信していた。 我が国と同様、映画産業にかぎらず、フランスの既存組織には新しいものを生みだす力がない。 だから、フランスの通常の映画製作ルートでは、当サイトで星が取れるような映画を撮ることはできない。 つまりフランスの組織は、もう死んでいる。 組織が死んでいるフランスで、秀作が生まれるとすれば、突出した個人が、全部を背負って撮る以外にない。 その映画が、まさにこの映画である。 優れた表現力をもったジュリー・デルピーが、全部背負ったから、他の誰からも制限を受けずに撮ったから、個人が撮ったから、秀作になった。 各人がそれぞれを分担して、映画は完成する。 しかし、映画も表現である以上、表現の最後を支えるのは、やはり個人なのだ。 この映画を見ていて、ほんとうに個人こそ表現を支えると、実感した。 フランス女優が一旗揚げようと、アメリカに渡ったけれど、まったく芽が出なかった。 その間、彼女はアメリカをよーく観察してきた。 そして、フランスとアメリカを比較した映画を撮ったのだ。 その視点が、シャープである。 両者の違いを、これでもかと、拡大してみせる。 一種のマゾ的、自虐的な視線である。 この映画で見るフランス人は、1968年の5月革命をとても大事にしている。 おそらく監督自身の実体験だろうし、また、本物の両親が映画のなかでも両親役を演じているが、両親たちも5月革命で解放されたのだ。 それにしても、長い歴史で形成された日常感覚や味覚といったものは、そう簡単には変わらない。 それがさまざまな部分に表れており、この映画では近代のアメリカと、前近代のフランスが対比されている。 フランス人はコンピュータが不得手であるとか、ネットの速度が遅いとか、そのとおりであろう。 近代化すれば裕福にはなるが、裕福が必ずしも幸福を保証するとはかぎらない。 裕福なアメリカと貧乏なフランスの間で、この女性監督はじつに見事な物語を語って見せた。 しかし、主題が米仏の比較だけに、この作品限りだろう。 この次には、どんな主題を見付けるか、それにかかっている。 父親のアルベール・デルピーも母親のマリー・ピレも、ともに上手い演技だったから、フランスの全俳優が下手だというわけではない。 ようするにフランスでは、新しい主題が企画を通らないと言うことだ。 2007年仏、独映画 (2008.06.05) |
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