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監督の子供時代を映像化したもので、いわば私映画といったら良いのだろらうか。 ところで、私映画はフィクションなのだろうか、 それともノン・フィクションなのだろうか。
私映画は、実話に基づいているのだから、フィクションというには虚構性が低い。 しかし、ノン・フィクションというには記録性が低い。 一体どちらなのだろうか。 と思うとおり、この映画は監督自身の体験の直接性に規定されてしまって、 フィクションとしての一般性を獲得していないように感じる。 1969年生まれの監督が、16歳頃の記憶をたどって映画化すると、時代設定は1985年ということになる。 まさに映画は、1985年当時に設定されており、ピンク・フロイドが流行り始めた話があったりする。 こうした映画の作り方は、同時代の人間には共感できるかも知れないが、 世代を越えた共感が成立しないのではないか。 ちょっと疑問である。 ベイビィー・ブーマー世代は、男女平等になったせいで、夫婦が友達関係になった。 かつてのように妻は夫に従うとは限らない。 漱石の妻なら、横暴な夫の仕打ちに対しても、自分が作家になって見返すこと等、想像も付かないだろう。 妻は夫にあたって不平を言いながら、妻のつとめを続けたに違いない。 しかし、ベイビィー・ブーマー以降は、妻も作家になる。 表現の世界で勝負すれば、夫が勝つとは限らない。 結婚17年たった今、忘れられた作家になりつつある。 それに対して、母親のジョーン(ローラ・リニー)は、新進作家として売れ始めてきた。 結婚当時は、尊敬できたバーナードだが、 今やジョーンにとってはフラストレーションの対象である。 2人が離婚するのは、時間の問題だった。 この映画は、離婚に巻き込まれた子供、 とくに長男ウォルト(ジェス・アイゼンバーグ)からの視点で撮られた。 長男ウォルトは16歳。 次男フランク(オーウェン・クライン)は、12歳だった。 ウォルトは素晴らしかった頃の父親を知っているので、どうしても父親びいきである。 それにたいして、落ち目になった父親と、 売れ始めた母親しか知らない次男は、母親びいきになる。 しかも、素晴らしいはずの父親も、成人してみれば普通の男性だった。 それもわかる。親子関係の設定は16歳当時におきながら、 現在から見た父親や母親をあてはめて描いていくのは、 子供である子供から見たのではなく、大人になった子供から見た両親像だろう。 ここで視点が移動しているのは、ちょっとずるいように感じる。 親と子という関係こそ変わらないが、ベイビィー・ブーマー世代の人間は、大人になれなくなってしまった。 幾つになっても煩悩多きというと、昔の人間にもあったように感じるが、 今の大人には大人の風格はない。 離婚は良いとしても、バーナードは教え子のリリー(アンナ・パキン)を手込めにしたのではなく、 子供と同世代の少女にかるく誘惑される。 20歳のリリーは、ウォルトの相手になる年齢である。 しかし、一度肉体関係ができれば、年齢差はたちまち雲散霧消してしまう。 大人が主導権を持つのではなく、 年齢が離れていても、2人はまったく横並びである。 これでは大人の風格も、何もあったものではない。 もっとも平等指向ゆえに、大人になれないというより、大人になることを拒否したというべきだろうか。 母親ジョーンの浮気が、離婚の一つの切っかけだが、 離婚後の男性放浪は、バーナードとは違う感じがする。 20歳の女の子に手を出したバーナードは、バカなことをしてと見ることができるが、 ジョーンのほうは渇望感からの男性遍歴に見えた。 離婚後の男女では、同じように異性関係を作りながら、何か質的に違うものがあるのだろうか。 一つの関係が終わった後、別々の道を選びながら、ちょっと違う選択がみえた。 離婚は両親の問題だが、子供にも大きな影響を与える。 盤石だと思っていた両親の関係が破綻して、子供たちは困惑の極みに落ち込む。 しかし、立派だと思ったのは、 両親は自分たちの生き方を、徹底して貫いたことだ。 我が国だと、子供のためという理由で、どちらかが折れて自分の生き方を曲げるが、 彼等は終始自分の生き方を貫く。 つねに自分の生き方に正直にある。 その結果、子供たちが傷ついても、それは仕方ないことだと割り切っている。 ここが良い。 誰も他人のために生きることはできない。 子供が成人後、子供たちのために離婚しなかったのだといわれたら、子供は立つ瀬がない。 子供が親の気持ちを曲げてしまったことに、 子供はとても負い目を感じる。 しかも、親は知らずのうちに子供へ、恩着せがましい視線を投げるだろう。 両親が不仲になったら、さっさと離婚して欲しい。 大人が正直に生きる姿を見せれば、環境が厳しくても子供は納得する。 この両親たちは、16歳と12歳の子供たちを、一人前の人間として扱い、 きちんと両親の気持ちを説明している。 離婚はしかたないが、子供への態度は、是非この両親たちのようであって欲しい。 アメリカのインテリ家庭の離婚物として、私映画がどれだけ意味があるか判らないが、 大人になれない両親たちと、 子供でいることを肯定するアメリカ文化には好感を感じる。 情報社会とは結局のところ、子供文化なのだろう。 子供文化が農業社会までの大人文化を凌駕してしまった。 子供が大人を越えてしまったことが、日本人の大人たちが情報社会に馴染めないところだろう。 2005年アメリカ映画 (2006.12.31) |
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