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ルィーズに訪れた恋は…   ディラン・キッド監督

 解放された女性は、どこまでオヤジ化するのだろうか。
露骨なセクハラでありながら、堂々と恋だという勇気には、もう脱帽である。
アメリカの女性は、忍ぶ恋にすることなく、欲望に忠実であることが、解放への原動力だったのだろう。

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 主人公のルィーズ(ローラー・リニー)は、コロンビア大学芸術学部の入学選考部に勤務している。
大学院に応募してきた学生が、F・スコット(トファー・グレイス)という名前だった。
F・スコットとは若き日に、彼女が入れあげて、ふられた恋人と同名だった。

 彼女は、交通事故で死んだf・スコットの再来に、なにか因縁めいたものを感じた。
そして、若きスコットに会うなり、性的な欲望をかき立てられ、たちまちベッドへと誘ってしまった。
若い彼はそれに応え、彼女は充分に満足した。
映画は、彼女の来歴や家族関係、スコットを争った友達などを回想しながら、中年女性と若者の恋愛を描いていく。


 ルィーズは分別盛りの39歳。
大学での地位は、部長である。
彼女は最近になって離婚し、いまは1人者。
そこへ20代の若い男が、大学院への入学を希望して、いい雰囲気で現れた。
それを食べてしまったのだ。
これを男性がやったらどうなるか。
金と権力をもった中年男性が、若い女性にたいして入学をえさに、性的な関係を迫ったという、典型的なセクハラだ。

 我が国では、セクハラが誤解されている。
猥談をするとか、ヌード・ポスターを貼るとか、女性のお尻を触るといった、性的な嫌がらせはセクハラとは呼ばない。
それは単なる嫌がらせにすぎない。
セクハラの定義とは、職業上の地位などを利用して、性的な関係をせまることだ。
仕事上の利益がバーターとなっているから、拒むことが困難で、セクハラにあった女性は、被害が深刻なのだ。

 この女性がやっていることは、入学を許可する立場にある地位を利用して、若い男性と性的な関係を結んだ。
応募要項からスコットを知ったのだし、外形だけ見れば、まごうことなきセクハラである。
下位者である被害者が、上位者に関係を迫られたといえば、真相は相思相愛であっても、セクハラと認められる。

 職場の上下関係があるのを承知の上で、不倫という恋に落ち、それが破綻したときに、セクハラだと訴えて、それが認められている。
そうした例を見れば、この映画が描く恋は、典型的なセクハラである。
監督こそ男性だが、この原作者は女性である。
一体どうなっているのだ、と言いたくなる。この映画が言うのは、女性たちも大人になった、ということだろう。

 恋は国籍をこえ、人種をこえ、性別をこえた。
そして、今、年齢をこえ、地位をこえ、すべての人間を恋の対象にしてもいい。
力をつけた女性たちも、そう言い始めたのだろう。
元来、恋は男性が始めたものだ。
我が国でも明治の始めに、恋を謳ったのは北村透谷などの男性だった。
お金をもった男性だけ恋ができた。
それは当然で、お金がなければ、自由が手にないのだから、恋にうつつを抜かすことはできなかった。

 それが戦後、政府は大家族から核家族へと転じるため、恋愛結婚を普及しようとした。
経済力のない女性を、男性に家庭で扶養させる必要があった。
つまり女性を家庭に閉じこめようとした。
そのため、恋愛と結婚をセットにして、恋愛結婚幻想を宣伝したのだ。
女性はそれにまんまと引っかかり、ロマンティックな恋愛から結婚というオリの中へと、専業主婦という形で永久就職していった。
いまでは女性にも経済力がついたので、女性も恋ができるようになった。

 この映画は、女性の自立が、安定期に入ったことを示している。
我が国では、恋愛の結果は、結婚に行きつくと思われているが、この映画では恋は恋としてだけ描かれ、結婚にはまったく触れてない。
それもまた当然で、女性には稼ぎがある。
男性はいまは若くて無収入だが、やがて稼ぐようになる。
とすれば、恋しい期間、2人が一緒にいることが大切なのであって、結婚という形は思い浮かばない。
だから、この映画で良い。


 1964年生まれのローラー・リニーは、映画の撮影時には、すでに40歳だったはずである。
彼女は充分に中年だが、ひきしまった身体を維持しており、知的な雰囲気をふりまいて、恋の戦士は自己啓発的だと感心させられる。
ルィーズがメタボリック・シンドロームのような身体だったら、いくら彼女が部長でも、若いスコットはなびかなかっただろう。

 恋は厳しい。選ぶのも自由だが、選ばれるのもまた相手の自由であり、選択権は両者にある。
いくら恋いこがれても、魅力のない人間は恋人に選ばれない。
もてる人間はもてまくり、もてない人間は、片思いで失恋の連続。
それが現実だ。
釣書をもって、お見合いの相手を紹介してくれる、気の良いオバサンが懐かしい。
そんな声が聞こえてきそうだ。

 自分に見合った相手を捜せばいいのに、男性は美人でスタイルの良い女性をさがし、女性はハンサムで高学歴・高収入の男性を捜す。
高望みするなといっても、美しいものには目移りする。
この映画は、美女美男が主人公だから、恋の残酷さを少しも感じさせない。
しかし、現実は厳しい。
中年になっても、もてる人間はいるだろうが、そのためにはエステやアスレチック・ジム通いが欠かせない。

 この映画は、トレーニングや自己啓発という裏方の作業は、まったく見せないで、お気軽な恋にしたてている。
当サイトは、もちろん中年の恋を支援する。
何歳になっても、恋して良いのは当然である。
しかし、厳しい自己啓発を忘れて、恋にあこがれるのは無理だ。
若さで勝負できない中年者は、何をもって恋人を魅了するのだろうか。

 インディ系の映画らしく、露出が最悪で、発色がきわめて悪い。
ローラー・リニーが上手い演技をしているのに、くすんだ画面と鮮明な画面が、カットごとに入れ替わり、気の毒なことこの上ない。
予算がなかったのかも知れないが、その割にはルィーズの元夫にはガブリエル・バーン、友達にはマーシャ・ゲイ・ハーデン、弟のサミーにはポール・ラッドと、出演者は豪華である。

 原作の題名も、映画の原題も「P.S.」である。もちろん原作の題名のほうが、はるかに良い。
Post-scriptなら、映画の展開と主題とも、ぴったりとあっている。
とにかく女性が大人になった、そう思わせる映画である。
 2004年アメリカ映画
 (2006.9.12)

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