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解放された女性は、どこまでオヤジ化するのだろうか。 露骨なセクハラでありながら、堂々と恋だという勇気には、もう脱帽である。 アメリカの女性は、忍ぶ恋にすることなく、欲望に忠実であることが、解放への原動力だったのだろう。
主人公のルィーズ(ローラー・リニー)は、コロンビア大学芸術学部の入学選考部に勤務している。 大学院に応募してきた学生が、F・スコット(トファー・グレイス)という名前だった。 F・スコットとは若き日に、彼女が入れあげて、ふられた恋人と同名だった。 彼女は、交通事故で死んだf・スコットの再来に、なにか因縁めいたものを感じた。 そして、若きスコットに会うなり、性的な欲望をかき立てられ、たちまちベッドへと誘ってしまった。 若い彼はそれに応え、彼女は充分に満足した。 映画は、彼女の来歴や家族関係、スコットを争った友達などを回想しながら、中年女性と若者の恋愛を描いていく。 大学での地位は、部長である。 彼女は最近になって離婚し、いまは1人者。 そこへ20代の若い男が、大学院への入学を希望して、いい雰囲気で現れた。 それを食べてしまったのだ。 これを男性がやったらどうなるか。 金と権力をもった中年男性が、若い女性にたいして入学をえさに、性的な関係を迫ったという、典型的なセクハラだ。 我が国では、セクハラが誤解されている。 猥談をするとか、ヌード・ポスターを貼るとか、女性のお尻を触るといった、性的な嫌がらせはセクハラとは呼ばない。 それは単なる嫌がらせにすぎない。 セクハラの定義とは、職業上の地位などを利用して、性的な関係をせまることだ。 仕事上の利益がバーターとなっているから、拒むことが困難で、セクハラにあった女性は、被害が深刻なのだ。 この女性がやっていることは、入学を許可する立場にある地位を利用して、若い男性と性的な関係を結んだ。 応募要項からスコットを知ったのだし、外形だけ見れば、まごうことなきセクハラである。 下位者である被害者が、上位者に関係を迫られたといえば、真相は相思相愛であっても、セクハラと認められる。 職場の上下関係があるのを承知の上で、不倫という恋に落ち、それが破綻したときに、セクハラだと訴えて、それが認められている。 そうした例を見れば、この映画が描く恋は、典型的なセクハラである。 監督こそ男性だが、この原作者は女性である。 一体どうなっているのだ、と言いたくなる。この映画が言うのは、女性たちも大人になった、ということだろう。 そして、今、年齢をこえ、地位をこえ、すべての人間を恋の対象にしてもいい。 力をつけた女性たちも、そう言い始めたのだろう。 元来、恋は男性が始めたものだ。 我が国でも明治の始めに、恋を謳ったのは北村透谷などの男性だった。 お金をもった男性だけ恋ができた。 それは当然で、お金がなければ、自由が手にないのだから、恋にうつつを抜かすことはできなかった。 それが戦後、政府は大家族から核家族へと転じるため、恋愛結婚を普及しようとした。 経済力のない女性を、男性に家庭で扶養させる必要があった。 つまり女性を家庭に閉じこめようとした。 そのため、恋愛と結婚をセットにして、恋愛結婚幻想を宣伝したのだ。 女性はそれにまんまと引っかかり、ロマンティックな恋愛から結婚というオリの中へと、専業主婦という形で永久就職していった。 いまでは女性にも経済力がついたので、女性も恋ができるようになった。 この映画は、女性の自立が、安定期に入ったことを示している。 我が国では、恋愛の結果は、結婚に行きつくと思われているが、この映画では恋は恋としてだけ描かれ、結婚にはまったく触れてない。 それもまた当然で、女性には稼ぎがある。 男性はいまは若くて無収入だが、やがて稼ぐようになる。 とすれば、恋しい期間、2人が一緒にいることが大切なのであって、結婚という形は思い浮かばない。 だから、この映画で良い。 1964年生まれのローラー・リニーは、映画の撮影時には、すでに40歳だったはずである。 彼女は充分に中年だが、ひきしまった身体を維持しており、知的な雰囲気をふりまいて、恋の戦士は自己啓発的だと感心させられる。 ルィーズがメタボリック・シンドロームのような身体だったら、いくら彼女が部長でも、若いスコットはなびかなかっただろう。 恋は厳しい。選ぶのも自由だが、選ばれるのもまた相手の自由であり、選択権は両者にある。 いくら恋いこがれても、魅力のない人間は恋人に選ばれない。 もてる人間はもてまくり、もてない人間は、片思いで失恋の連続。 それが現実だ。 釣書をもって、お見合いの相手を紹介してくれる、気の良いオバサンが懐かしい。 そんな声が聞こえてきそうだ。 高望みするなといっても、美しいものには目移りする。 この映画は、美女美男が主人公だから、恋の残酷さを少しも感じさせない。 しかし、現実は厳しい。 中年になっても、もてる人間はいるだろうが、そのためにはエステやアスレチック・ジム通いが欠かせない。 この映画は、トレーニングや自己啓発という裏方の作業は、まったく見せないで、お気軽な恋にしたてている。 当サイトは、もちろん中年の恋を支援する。 何歳になっても、恋して良いのは当然である。 しかし、厳しい自己啓発を忘れて、恋にあこがれるのは無理だ。 若さで勝負できない中年者は、何をもって恋人を魅了するのだろうか。 インディ系の映画らしく、露出が最悪で、発色がきわめて悪い。 ローラー・リニーが上手い演技をしているのに、くすんだ画面と鮮明な画面が、カットごとに入れ替わり、気の毒なことこの上ない。 予算がなかったのかも知れないが、その割にはルィーズの元夫にはガブリエル・バーン、友達にはマーシャ・ゲイ・ハーデン、弟のサミーにはポール・ラッドと、出演者は豪華である。 原作の題名も、映画の原題も「P.S.」である。もちろん原作の題名のほうが、はるかに良い。 Post-scriptなら、映画の展開と主題とも、ぴったりとあっている。 とにかく女性が大人になった、そう思わせる映画である。 2004年アメリカ映画 (2006.9.12) |
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