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現代アメリカの家族が、到達しようとしている家族像を描いて、出色だった。 核家族はとうの昔に解体し、単家族になろうとしているアメリカで、暖かい人間関係を賢明に模索する。 真摯な努力が続いている。 前半がちょっと鈍くて、イライラするし、まじめすぎて、そんなという場面もあるが、無条件に星を献上する。
バリバリのキャリアウーマンであるメレディス(サラ・ジェシカ・パーカー)。 と書くことすら、すでに時代遅れだと、この映画はいう。 小柄で不細工な彼女は、かっこいいキャリア男性のエヴェレット(ダーモット・マローニー)と、結婚寸前だった。 身体こそ男性のほうが大きいが、仕事ではすべてに彼女のほうが上。 彼の出世は、あきらかに彼女に助けられたものだ。 今夜は、クリスマス。 初めてエヴェレットの家族に紹介される。 都会育ちのメレディスと異なり、エヴェレットの家族は、典型的な地方都市のアッパーミドルクラス。 外見上は、新しい動きに理解を示し、人種差別もないし、養子に対しても好意的である。 しかし、一皮むけば保守的な心性を、なんとか良心で隠していたのだった。 そこへ長男のエヴェレットが、本音だけで生きるメレディスをつれて来たのだから、波風が立たないはずはない。 夕食の席上で、三男のサッドがゲイだという話題になる。 しかも、サッドの恋人は、黒人である。 母親のシビルは、自信満々に我がストーン家では、ゲイ差別も人種差別もない、という。 しかし、メレディスは、ゲイにはhivの問題もあるし、 ほんとうはゲイじゃない方が良いでしょう、といってしまう。 そのうえ、黒人より白人のほうが、良かったんじゃないですか、ともいってしまう。 メレディスにすれば、軽い話題のつもりだったのだが、ストーン家の人たちにとっては、やっと克服した差別感情だったのだ。 自分たちだって、ゲイよりストレートのほうが良かった、黒人より白人のほうが良かった。 しかし、息子が選んでしまったのだ。 本意ではないが、自分たちの差別意識をなだめすかし、何とか折り合いをつけてきたのだ。 そこをまたほじくりかえされた。 自分たちが否定したかった自分たちの差別意識を、白日の下にさらけだされてしまった。 鈍感な女だと、怒るのももっともだった。 単純な人種差別主義者なら、メレディスとは単なる喧嘩で終わる。 しかし、ストーン家の人たちは、人種主義者を克服しようと、精一杯の努力をしてきた。 ゲイ差別主義者・人種差別主義者である自分に、いまさら触れて欲しくはない。 一方、メレディスにとっては、すでにゲイも黒人も、まったく自分と同じだから、 厳しく批判もすれば、ゲイや黒人の悪口も言う。 そうした対応が、まだストーン家の人たちにはできない。 だいたい女性が主導権を持っていることも、本心では許すことができないのだ。 賢かったエヴェレットが、なぜこんなチンケな女に振り回されるのだ、と母親のシビルは憤る。 ボタンの掛け違いは、ストーン家でメレディスを、浮いた者へと追い込んでいく。 エヴェレットは味方になってくれず、予想どおり頼りにならない。 差別主義者たちのなかで、浮いていくメレディス。 地方のアッパーミドルクラスの生態を知っているメレディスは、必死で彼等に合わせようとする。 しかし、努力すればするほど、亀裂は深まるばかり。 とうとう彼女は、妹のジュリー(クレア・ディーンズ)に応援を頼む。 これが裏目に出る。 エヴェレットがジュリーへと、心変わりしてしまうのだ。 このまま終わっては、映画にならない。 そこでメレディスをストーン家から飛び出させる。 彼女を捜しに出た次男のベンは、もっとリラックスするように忠告する。 ノッた2人は、徹底的に飲むことになる。 そこへベンの同級生も合流して、メレディスは地で行動を開始する。 酔いつぶれた彼女が目覚めたところは、ベンのベッドのなかである。 ベンとは何もなかったはずだが、マリワナもやったことだし、 ベンのベッドにいたということは、行くところまでいってしまったかも。 婚約者の弟と寝たとあっては、申し開きができない。 ひたすら小さくなるメレディス。 結局、すべてが明らかになり、誤解が解ける。 ゲイだって黒人だって、優秀で金持ちだ。 この映画ではサッドのカップルは、レンジローバーにのっている。 アメリカの家族は、ゲイや人種差別を克服しつつある。 アッパーミドルクラスが、彼等を家族の一員にまで、迎え入れるところまでは来た。 しかし、時代はそこで止まっているわけではない。 「アリー・マイ・ラブ」のアリーが、地方都市へ行ったと想像すればいい。 アリーは思ったことを平気で口にしてしまう。 ゲイや黒人であることを、最初から問題にしていないのだ。 ゲイや黒人が悪いのじゃなくて、当人が悪いのだ。 そのうえ、ゲイや黒人に特有の欠点もある。 しかも、都会なら言われた方だって、平気で言い返す。 都会のアリーにとっては、そうやって差別は希薄化してきた。 こう書いてきたからと言って、ストーン家の人たちを非難しているのではない。 それはわかるだろう。 我が国では、いまだストーン家の人たちまでも至っていない。 むしろ、ストーン家の人たちは、自分たちが人種差別主義者であることを知っている。 だから、一度は怒った父親のケリーも、母親のシビルも、メレディスに謝る。 正義はメレディスにある。 ストーン家の人たちは、きわめてまじめなのだ。 こうやって、まじめに正しい自分へと、少しづつ軌道修正してきたのだ。 この姿勢は、我が国が見習うべきものだ。 その意味で、アメリカの良識は、はるかに我が国より先を行っている。 差別の顕在化しているアメリカでは、衝突を繰り返しながら、差別を克服してきた。 こうした映画が撮られるかぎり、今後もアメリカは差別を克服していくだろう。 核家族が分解し、単家族になったアメリカは、 人間同士の暖かいぬくもりを、何とか確立しようと必死である。 温かい人間関係の確立は、次世代を担う子供のためだけではなく、自分たちのためなのだ。 まっとうな子育てのためには、まっとうな家族のためには、大人たちが正直である必要がある。 父親ケリーの態度には、それが満ちあふれている。 単家族といったとき、人は1人暮らしを想像するかも知れない。 しかし、単家族は1人暮らしではない。 血縁や必要性でつながった大家族ではなく、精神的な愛情だけでつながった人間集団を、単家族というのだ。 だから、ゲイとも血縁のない人間とも、家族関係がもてる。 この映画は、最後には全員を幸せにカップル化してしまって、ややご都合主義的であるが、家族関係の拡大に一石を投じている。 我が国では差別があっても、それを口にしないで、全員が忘れようとする。 部落差別が典型だが、全員が知らなくなれば、差別が解消できると考えているらしい。 それにたいして、アメリカは差別を徹底的に表面化し、 互いに批判しあい、差別を克服しようとする。 我が国のある映画評論は、この映画を見て、メレディスを人種差別主義者という始末。 この映画の主張は、我が国では理解されないだろう。 単館上映で、しかも劇場パンフレットも用意されていないのは、当然だろう。原題は「The Family Stone」 2005年アメリカ映画 (2006.7.20) |
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