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イギリス外交官と、その妻の話である。 かつてなら、こんなに元気のいい妻の話は、映画にならなかった。 いまでも、我が国ではありえないだろう。 しかし、フェミニズムを経た国では、いかにもありそうな話である。 年の離れた男女が、恋に落ちる。 一歩間違うと、セクハラになりかねないが、女性のほうから積極的にベッドへと誘う。 これも今日的かも知れない。 会った1時間後には、2人はベッドにいた。 そして、切れない縁で結ばれた。 その前の経緯からすると、ちょっと早すぎる感じがしなくもない。 しかし、これは不問にしよう。
男性は代々にわたり外交官の家系だが、政治には興味のないジャスティン(レイフ・ファインズ)。 彼の趣味はガーデニングである。 大きな遺産を承継した女性テッサ(レイチェル・ワイズ)の職業は不明である。 とにかく2人は速攻で結婚する。 そして、ジャスティンのアフリカ赴任について、テッサはケニヤにいく。 ジャスティンはケニヤに行っても、庭いじりに余念がない。 「The Conatant Gardener」という原題どおり、彼はいかにもイギリス人らしく、 地球上のどこに行っても、自分の趣味に生き続ける。 しかし、テッサはアフリカの貧しさを見て、天命に目覚め、妊娠中にもかかわらず、元気に現地を飛び回る。 彼女は西洋の製薬会社が、アフリカ人を人体実験に使っている事実を知った。 副作用で多くの人が死んでいる。 服用する前に同意書にサインをさせ、製薬会社は免責を得ている。 アフリカの貧しい人の命は、極端に安い。 誰も人体実験を止めようとしない。 そこで彼女は敢然と立ち上がった。 しかし、イギリス政府も公認の人体実験だったので、反対に彼女が抹殺されてしまった。 この映画は活劇ではなく、純愛にしたかったのだろう。 そこでテッサは、外交官の夫を危険に巻き込みたくなかったので、 ことの顛末をジャスティンに隠していた、という筋書きにした。 彼女が殺された後で、彼女の秘密を探る形で映画は進む。 彼女が日常の活動を隠していたことから、 一緒に殺された同僚の医師アーノルド(ユベール・クンデ)と、不倫していたのではないかと疑うが、その疑いはすぐに晴れる。 アフリカでは珍しいことに、同僚は何とゲイだったのだ。 農業が主な産業とする社会では、年齢秩序に逆らうゲイは許されるわけがない。 途上国ではホモはたくさんいるが、ゲイは蛇蝎のごとく嫌われる。 アーノルドは自分の嗜好を隠していたから、ジャスティンにも判らなかったが、 ゲイがテッサと不倫するわけがない、と彼は安堵する。 そして、2人がなぜ殺されたのか、彼は本国と西ヨーロッパ諸国、そしてアフリカと駆けめぐって原因を探る。 結局、製薬会社とイギリス政府の陰謀によって、 2人は殺されたと判るが、なぜか彼も殺されてしまう。 アフリカでの人体実験を告発する、その主題は充分に判る。 しかし、この主題が消化されておらず、映画のつくりに無理がある。 いくら外交官の夫を危険に巻き込みたくない、 知らせないのが危険から守るためといっても、知らせないのは不自然である。 信頼しているのであれば、またジャスティンのツテで、アフリカに来たのであれば、やはり知らせるのが自然だろう。 世界の政治は、複合的に動いている。 一つの正義の主張は必ずしも、本人の願望どおりには結果しない。 この映画のように、人体実験に反対するという正義のためであっても、貧しいアフリカでは必ずしも正義ではない。 彼女の行動はアフリカ人たちも歓迎しないから、アフリカ人によって抹殺されてしまう。 現代の正義は、複合的に捉えられる必要があり、 単純な正義感での行動は、必ずしも最適な結果をもたらさない。 おそらく原作者のル・カレは、そのあたりの事情を良く知っているはずだから、 原作はもっと緻密に相対的に描かれているだろう。 しかし、映画化されるときに、ボタンを掛け替えたのだ。 この映画が描く正義は、もはや古いと言わざるを得ない。 この映画は活劇にすることを望まず、純愛映画にしたかったようだが、 純愛もすでに古いのではないだろうか。 たしかにテッサは、ジャスティンに純粋な愛情を注ぐが、 生活が成り立った上にしか愛情は成立せず、愛は世界を救うような観念は古い。 愛情と生活は別次元だと、すでに知られているだろう。 その理由は、おそらく監督がブラジル人だからではないか。 ブラジルはいまだ工業社会の段階にあり、正義も愛情も古いままで充分に通用するのだろう。 だから、こうした設定になってしまったのだと思う。 工業社会に入ったときには、農耕社会と工業社会の価値観の違いに、多くの人がとまどった。 農耕社会の正義と、工業社会の正義は違ったし、愛情もまた違った。 農耕社会を引きずる我が国ではいまだに、工業社会の個人主義が理解しきれていない。 情報社会に入る今、 工業社会にいる人たちが、情報社会の価値観を理解できなくとも、まったく当然のことだ。 人はその社会にあった価値観を身につけるのであり、生活者はその社会から逸脱することはない。 工業社会に生きるブラジル人が、外国体験によって情報社会の価値観を身につけてしまうと、 ブラジルでは浮いてしまって、生活ができなくなる。 「石の花」は見ないほうが良いのだ。 2005年イギリス映画 (2006.5.16) 追記 「ナイロビの峰」ではなく、「ナイロビの蜂」が、正しい邦題だとのご指摘を受けた。 まったくそのとおりで、当方の間違いだったので、直ちに訂正する。 ところで、「ナイロビの蜂」が邦題で、「蜂の一刺し」からの援用なんてことはないと信じたいが、 この邦題を付けた人の見識を疑いたくなった。 おそらく蜂は、ヒロインのテッサのことだろう。 跳ねっ返りのテッサを、この映画の中心と見ているのかも知れないが、 この映画の中心はあくまで男性のジャスティンである。 愛する女性テッサの遺志を継いで、男性が社会正義に目覚めるというのが、この映画の展開である。 そして、本サイトはこの正義や愛情は、すでに古いと書いた。 この映画は、工業社会の正統派正義感に貫かれているから、この正統派正義感がもはや古いのである。 だから、この映画を高くは評価しない。 しかし、正義感に燃える女性を、「蜂」だといって揶揄するような立場は、本サイトは絶対にとらない。 正義感に燃える女性を、小さな蜂だと見なすことは、この映画の主題以前である。 この映画のレベルにすら到達していない。 「the conatant gardener」という原題を、女性のほうへ移してしまった理由は何だろうか。 「蜂の一刺し」と関連づけて理解しようとした、当方の誤解であることを祈る。 (2006.5.23) |
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