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マイ アーキテクト  ルイス・カーンを探して
 ナサニエル・カーン監督

 1974年3月に、ニューヨークのペンシルバニア駅で死んだ建築家ルイス・カーンの息子ナサニエル・カーンが、父親の人生をカーンの作品をめぐりながら、建築や家族を考えた映画である。
この映画は建築は芸術である、といっている。
建築家とは何と罪深い職業であろうか。

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 神の宿る建物を創ったといわれたカーン。
建築作品に関しては、天才と称され、誰も文句の付けようがない。
とりわけ光の扱いにかけては、神が舞い降りるとさえ称されている。
彼はアメリカのみならず、世界中に作品を残している。
しかし、彼の人生は謎が多かった。
彼の個人的な生活は、はなはだ非道徳的であった。

 彼は3人の女性と人生をともにし、まず正妻とのあいだに、スーという女性をもうけている。
そして、パトリエット・パティソンという愛人とのあいだに、ナサニエルという男性をもうけ、アン・ティンという女性のあいだにアレクサンドラという女性をもうけている。
しかも、死んだときには身元が分からなくて、3日間も駅の死体置き場におかれていた。


 2人目の愛人であるパディソンの息子ナサニエル・カーンは、彼が11歳の時に父親を失っている。
両親とも建築家だったが、11歳では父親の評価はできない。
彼の職業がはっきりしていなかったが、映画での語りを聞く限り、たぶん建築家ではないだろう。
なぜ建築を専攻しなかったか、ちょっと興味がある。
建築は誰にでも開かれている。
成長するにつれ、父親に興味を感じ始め、父親の作品めぐりを始める。

 カーンの建築作品は、作品集もたくさん出版されているし、すでに評価が定まっている。
この映画でも作品集で見慣れた、古典的なプロポーションの建築が登場する。
写真よりは実感できるかも知れないが、やはり映画では実物を見たというわけにはいかず、なかなか言うべき言葉が見つけられない。
ただ、すでに鉄とガラスの時代に入っていたはずで、重厚な素材をつかったスタンスは、やや時代とは離れたものだったように感じた。

 大学の教授だったことは、仕事をとるのに大いに有利だったろうが、それでも設計を受注するのは大変だったろう。
とくに流行とは違ったスタンスだと、仕事が時代遅れに見えて、受注に支障があったと思う。
しかも、スタイルをもってしまうと、他の表現ができなくなっていく。
頑固にスタイルを追求した彼は、死んだときに50万ドルの負債があって、破産同然だったという。

 建築は芸術だから、作品がすべてである。
どんな人生を生きても、作品が彼を語る。
しかし、肉親はそうはいかない。
息子は生身の父親を知りたいだろう。
ましてや2人も愛人がいたとなると、他の人たちにも関心が向かざるを得ない。
本妻は建築には関係ないが、パトリエットは彼と一緒に仕事をしている。
2人目の愛人は、また建築とは関係ない。

 本妻と愛人のあいだは、どろどろしたものがあったようだ。
3人目の女性は、彼女の親族一同から大反対されたようで、その姉妹たちが当時の事情を詳しく話している。
今でも、結婚しないというと大反対にあうのだから、当時は大変だったろう。
しかし、その子供たちは淡々としたものだった。
3人が一緒になるシーンがあったが、3人とも平静だった。


 芸術=表現に従事する者は、表現に全身全霊を注ぎ込む。
物書きや画家なら、個人の表現だから、全身を注ぎ込んでも、迷惑をこうむるのは家族だけですむ。
しかし、建築の設計は1人ではできない。
何人かの所員が必要である。
建築家は所員も建築に全身を投じて当然だと思っている。
だから、所員も表現者たる建築家の、全身建築家に巻き込まれていく。
建築家には土日はなくて当然だが、所員も土日がなくなっていく。
カーンも所員の使い方は酷かったようだ。

 創造とは神の仕事である。表現は神に替わる仕事である。
建築も同じだろう。
カーンの作品には神が住むといわれたのだから、彼はとりわけ神に替わる仕事師だったろう。
身近にいる人間は、現世的には大迷惑を受ける。
表現者には世の常識は関係ない。
ただ創るべき物だけがある。
周りの人間も生きており、お金も必要だし、余暇も欲しい。
しかし、建築家にはお金など眼中にない。
表現者には道徳など無縁である。

 建築家は所員を奴隷のごとく使役して、自分の作品を創り出す。
それは神が人間を手足のように使うのと、まったく同じである。
かつては厳しい徒弟関係が許された。
しかし、現代社会では徒弟では所員は居つかない。
近代的な労使関係が、表現の世界にもやってきた。
カーンたちは最後の職人だったのかも知れない。

 カーンの時代には、設計精神を実現するための技術を体得するには、長い時間がかかった。
建築の精神に形を与えるには、材料を知らなければならないからだ。
そうは言っても、時代に残るのは形ではなく、建築を支える精神=思想なのだ。
設計思想だけが、時代を超えることができる。
現代建築は、建築を消し去ろうとしているが、ここに設計思想が残る余地があるだろうか。

 カーンは形を残そうとしたのではなく、明らかに建築思想を残そうとしている。
それはこの映画から良く伝わってくる。
この映画を見ていると、建築家というのは矛盾した存在だと思う。
発注者からお金をもらっていながら、実は発注者のために働いているのではない。
表現のため、神のため、思想のために働いているのだ。

 発注者がいなければ、建築家は思想が実現できない。
にもかかわらず、発注者のために仕事をしないとは、建築家とは因果な職業である。
そう考えると精確に言えば、建築家の設計した住宅には、人間は住めないかも知れない。
だから住宅は、建築家に依頼しないほうが良いのだろう。

 バングラディッシュの国会議事堂を、カーンは設計している。
ナサニエルがここを訪れたときに、カーンを手伝った現地の建築家が、「主義に殉じている人間は、離れた人間を救うことができるが、身近な人間には困難を与える」というようなことを言っていた。
天才カーンは家族には迷惑だったかも知れないが、バングラディッシュの貧しい人には救いだったというわけである。
途上国の知識人は、とても長い視線をもっており、大人の風格がある。

 この映画が言っていることは、ほとんど承服できる。
たった一つ気になったのは、現代建築がガラスの固まりになっていっているが、神ははたしてガラスのどこに宿るのだろうか、である。
神が宿らない物に永遠の命がないとすると、現代建築はどう生き延びるのだろうか。
この映画によって、自分の職業を見直す機会が与えられた。
 2003年アメリカ映画
 (2006.3.25)

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