タクミシネマ           笑の大学

笑の大学    星 護 監督

 時代は昭和15年、国民一丸となって、お国のために闘うことが要求されていた。
当時は上映される作品は、すべて事前に検閲を受けなければ、公開できなかった。
浅草の喜劇劇団「笑の大学」も、例外ではなかった。
ちなみにエノケンの脚本を書いた菊谷栄が、この映画の主人公のモデルだという。
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 出来上がった脚本を、検閲官に提出する。
すると検閲官は、あそこが悪いここが悪いと文句を言ってくる。
それに逆らったら上演禁止になってしまうので、多くの脚本家たちは、検閲官の指示には泣く泣く従っていた。
新任の向坂検閲官(役所広司)は、なぜか「笑の大学」の座付作家・椿(稲垣吾郎)には、特別の注文をつける。
もちろん無理難題である。


 ジュリオとロメエット(ロメオとジュリエットのもじり)は、外国人が主人公だから、時節柄も不謹慎である。
主人公を日本人に変えよと言われる。
他にも様々の要求が出るのだが、いずれも喜劇の定石を無視したものばかりだった。
しかし、それを逆手にとって椿は、なんとか脚本をまとめていく。
この検閲官と脚本家のやりとりが見物である。

 この映画は、本来は舞台の脚本だったように思う。つまり2人の登場人物のやりとりが、延々と続き、会話と間のおもしろさを見せるものだったろう。映画化されるに当たって、活動的な場面を加えたつもりかも知れないが、まったく映画的になっていない。舞台をそのまま持ち込んだようで、映画用脚本としては落第であろう。

 向坂検閲官を演じた役所広司はともかくとして、椿を演じた稲垣吾郎は科白が喋れていない。
身体の動きは良いが、これだけ科白の多い映画では、発声の基礎的な訓練を受けていない役者には、この役は無理である。
また、役所にしても絶叫型の演技で、毎度の日本映画の欠陥を露呈している。
もっと自然に素直に演じることはできないのだろうか。
日本の映画役者は、いつの間にか見得を切るようになってしまった。

 「笑の大学」というのだから、当然に喜劇を期待していった。
しかし、これが笑えないのである。
もちろん2時間の中では、笑える箇所も5カ所ほどあった。
<お国ため>という科白を、加筆せよと迫る検閲官に対して、お国のために闘う、と言わせた後で、おクニちゃんのためだという。
ここは館内からもどっときた。


 喜劇の脚本家を主人公にしているが、喜劇ではなかったのかも知れない。
むしろ検閲の非人間さを、真面目に描こうとしたのかも知れない。
そう考えると、役所の役割や最後の場面など、納得できるものである。
しかし、喜劇は上等な表現である。
笑いとは崇高な精神作用である。
もっともっと笑いに徹底して欲しかった。

 映画としてみると、主題が絞り切れていない。
一応の脚本が完成した段階で、物語は終わってしまい、その次には違う主題が始まってしまっている。
映画の前半3分の2と、後半3分の1が、別の主題になってしまった。
どうして人間愛など、直接に言いたがるのだろう。
出征が決まった椿に、検閲官は死ぬんじゃないぞ、生きてかえって来いなど、臭い台詞を言わせる。

 検閲官を徹底してパロレば、人間愛を充分に伝えられるのに、臭い台詞を言わせては芸のないことおびただしい。
権力対表現者という構造自体が、すでに人間愛に溢れた設定なのだから、ここで発せられる椿の科白のすべてが人間的になる。
だから、検閲官の指示に従いながら、結果としておもしろ脚本になっていく優れた設定を、ただ貫徹すればいいのだ。
検閲官が脚本家を励ます場面など不要である。

 ちょっと私事になるが、検閲官と脚本家のやりとりは、建築確認の審査官と設計者の立場にそっくりだった。
設計者は優れた建物をつくりたい。
しかし、審査官は法律の網をかぶせようとして、法律に合わない点を指摘してくる。
不適合をどうすれば良いのかと質問すれば、審査官はそれは自分で考えてくださいと応える。

 この映画でも、検察官はダメだしをするが、解決方法は自分で考えろと言うだけである。
検察官のダメに、脚本家が七転八倒する。
しかも、開幕が2週間後に迫っており、検閲に手間取っていると、稽古の時間がとれなくなる。
挙げ句の果てに、上映禁止と言われたら、元も子もない。
検閲官には絶対に逆らえないのだ。
設計者もまったく同様である。


 舞台の開幕日と同様に、建築にも着工期日がある。
審査官のご機嫌を損ねて嫌がらせをされ、審査期間を伸ばされたりでもしたら、重大な被害が生じる。
だから多くの設計者は、卑屈なほどに平身低頭して、確認を通そうとする。
また、現場検査に来る役人たちにも、建築関係者は極端に神経質である。
決裁権を持った役人対現場の構造は、この映画とまったく同じだった。
そんな思いをしながら見ていたので、設定自体で充分に人間的に見えてきた。

 役人だって家族があり、彼自身は善良な人物だろう。
しかし、権力という組織が、彼を非人間的にする。
我が国では、権力者というと総理大臣などを想像するが、権力とは支配されている方も支えている。
小役人と言われる善良な人たちが、実は権力を支える根幹である。
残酷なナチや非道な天皇制だけが、権力ではなく、むしろ小役人たちの真面目な勤務自体が権力を支えている。

 着想が非常におもしろ映画だったが、未消化で笑えない喜劇になっていた。
蛇足ながら技術的なことが、2点ばかり気になった。
アップの時にはピタリのピントだったが、引いて全身を映すと、なぜかピンぼけになってしまう。
意識的にやっていたのか、理解に苦しんだ。
また、我が国では珍しくコダックを使っていたが、発色が一定しておらず、基本的な技術にももっと神経を使って欲しい。
2004年日本映画
(2004.12.2)

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