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カフカの原作を映画化したもので、ほぼ原作に忠実に展開される。 原作が何を言いたいのか、よく判らないのだから、それをもとにした映画も当然ながらよく判らない。 しかし、画面を支える美意識は素晴らしく、コダックがえがく色彩の美しさと、構図の確かさは圧倒的である。
プラハの町は今でも美しいらしい。 しばしば映画の舞台になる。 この映画もプラハが舞台である。 時代設定は問題にならないが、とにかく戦前であろう。 男も女も性別に従った衣装を身につけていた。 この時代には、性別の世界に生きることが許されていた。 自然の掟に従ってきた人々は、自己決定を迫られると、何を基準に判断して良いのか判らない。 決定は神様の仕事だったのだから、人々が決定に躊躇するのは無理もなかった。 しかし、不安という自意識が人々を苛み始めるのは、まだ時間がかかった。 ただ文学者だけが、不安を描いて見せた。 いつの時代も、先蹤者は孤独なものだ。 カフカもプロの文学者ではなく、余暇に文章を書く素人作家だった。 カフカの作品が認められるには、時代がまだ追いついていなかった。 「ある朝、目が覚めると、巨大な虫になっていた」という書き出しだけは有名だが、この小説をどうやって映画化するのだろう。 ほとんど物語が展開しないので、案の定、退屈な映画になっている。 巨大な虫が家の中にいて、それが昨日までの息子とすれば、家族たちは困惑するだろう。 家族の困惑は良く描かれていたが、虫になった本人の孤独や不安は、画面に描きようがないのだろう。 何しろ虫になってしまったのだから、彼には言葉がない。 それを顔や身体の仕草で、何とか表現しようとするが、虫になった彼には虫の意識はあっても、人間の孤独はない。 孤独や不安を表現の材料にするのなら、いまでは虫に例えなくても沢山の例がある。 貧乏なロシアで、高価なフィルムを使う贅沢には、新しい冒険は出来ないのだろうか。 すでに有名になった原作の解釈でしか、映画を撮れないとしたら悲劇的である。 正統的な表現の伝統があるだけに、映画の画面は美しく端正である。 暗い風景でも、実に発色が良く、撮影技術には驚嘆する。 ピントもかっきりと来ており、映画技術の冴えは見事である。 俳優も上手い。 虫になったグレーゴルを演じたエヴゲーニイ・ミローノフは、床をはいつくばるのに、渾身の熱を込めて演じていた。 何の道具も借りずに、虫のような雰囲気がでている。 映画はやはり娯楽である。 芸術探求の映画もいいが、同時代的な先鋭さがないと、古典の単なる解釈に終わってしまう。 美しく完成されたこの映画の退屈さは、同時代的な問題関心の希薄さだろう。 2002年ロシア映画(2004.11.14) |
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