タクミシネマ        草の乱

草の乱      神山征二郎監督

 きわめてオーソドックスな手法で作られた映画で、我が国でもいまだにこのような映画を撮れるのかと、しばし感嘆する。
大勢の登場人物、広い場所を駆けめぐる人たち、適切な舞台設定などなど、映画の基本に忠実な作りである。
しかし、作品としての映画としては、ほとんど見るべきところはない。
草の乱 [DVD]
公式サイトから

 明治の初め、資本主義の原資蓄積に突き進む我が国は、貧富の差が拡大し、国民の多くは貧しい生活にあえいだ。
とりわけ生糸を生産していた北関東は、原糸の値崩れから生糸の生産者たちが、壊滅的な打撃を受けた。
維新後まだ日が浅いので、農民の不満は反政府運動になりやすかった。
薩長で固められた明治政府は、いまだその政治基盤が確立せず、各地で農民たちの反乱が続いていた。

 この映画の舞台は秩父である。
米作に不向きな秩父地方は、生糸の生産に頼ってきた。
そのため、原糸の値崩れは、農民に破産者を続出させた。
自殺を余儀なくさせられた者すら出ていた。
こうした中、高利貸したちは非情な取立に走った。
農民たちは借金返済の先送りを求めて、個別交渉をしたが埒が明かなかった。
官憲側は農民には味方せず、合法的な商業者である高利貸したちに味方した。


 1884年11月1日、秩父郡吉田村椋神社に刀、槍、猟銃で武装した農民が、3千余人も集まり武装蜂起した。
彼らは困民党を名乗り、最初のうちは、借金の返済を延期してもらうつもりだった。
しかし、政治運動は当人たちの思い通りになるとは限らない。
明治政府に対する真っ向からの挑戦となってしまった。
この蜂起は9日後に軍隊と警察により壊滅させられた。
12名の死刑、3千余名の処罰が、明治政府からの返答だった。

 資本主義が誕生する減資蓄積の過程は、どこの国でも残酷な弱肉強食がはびこる。
現代でも例外ではない。
今はやや峠を越えつつあるが、アジア諸国は厳しい時機を過ごしてきた。
近代化に入っていない中南米諸国は、こうした減資蓄積の過程に入っていないので、問題は公になってはいない。
しかし、庶民の生活実態は、アジア諸国以上に悪いはずである。

 この映画は、秩父困民党事件の世直しという面を主題にしている。
この事件は1地方の反乱でしかなく、国家権力の奪取を目指したものではなかった。
そのため、たちまち弾圧されてしまったが、監督は世直しに人間愛を見ようとしているようだ。
しかし、こうしたものの見方は、センチメンタルな感傷主義に過ぎず、政治的な現実主義からはほど遠い。


 明治初期に頻発した反乱は、主観的な意図はどうであれ、政治的な闘争であった。
長期的な戦略のないこれらの運動は、敗北を必然化させられていた。
こうした映画を撮ることが、亡くなった先人たちへの鎮魂としてなら、映画製作を肯定せざるをえない。
しかし、この映画の人間愛は、センチメンタルな感傷的表現を押さえているとはいえ、現代政治にひきなおすとき、政治的な結集を解体する働きを持つように思う。

 権力を志向しない政治運動は否定される。
政治の世界に、直接的なセンチメンタリズムを持ち込むと、運動の力を解体させてしまう。
我が国の革新派や左翼は、心情的な正義感から運動を起こそうとするので、どうしても政治の力学的な要素に疎い。
権力をめぐる動きになったときには、体制側とまったく同じ体質を露呈してしまう。
かつての社会党が、自民党と同体質だったとことは、もっと反省されなければならない。

 この監督の良心はよく判るし、死んでいった先人を弔いたい気持ちにおいて、真摯であることは良く伝わってくる。
しかし、農民たちの反乱を、その心情でのみ評価する行動は、もう終わりにしたい。
全共闘運動から連合赤軍などの体験を経た以上、弱者救済的な心情主義に止まるのではなく、もっとリアルな政治認識を示して欲しい。

 当サイトは、この映画を肯定できない。
この映画が正統派的に作られているのは判るが、正統的であるがゆえに何の衝撃もない。
ただ関心したのは、大変なお金がかかっていることだけだ。
出演者にしてもそれなりの役者が出ているし、何よりも大勢の出演者が圧倒的である。
明治初期の服装だけでも、あれだけの人数分を揃えるのには、大変なお金がかかっている。

 大金がかかっていることから、むしろさまざまな疑問が生じた。
この映画を撮るために、スクリーンの外で行われた宣伝・募金活動の大きさに驚嘆する。
これだけのお金を集めるには、動員力を持った組織が後ろ盾にならなければ、困難なように思う。
まったくの独立プロがやったとしたら、ほんとうに驚嘆に値する。
お金を集めるカラクリが気になる。

 多くの賛同者を集めることができる企画は、じつは平凡で通俗的であり、時代を切り開く力はないようだ。
この映画も大金を集めることが出来たがゆえに、企画の段階で作品の衝撃度の低いことが見えてしまっている。
これだけのお金を集めることが出来る人は、自分でメガホンをとらずに、プロデューサーに徹したらどうだろうか。


 大金をかけた映画でありながら、単館上映なのはどうしてなのだろう。
独立プロの映画は、先鋭的であるがゆえに出資者がつかず、必然的に単館上映にならざるを得ない。
しかし、この映画は先鋭的ではない。
これだけのお金を集めるには、多くの人が協力しているはずで、単館上映とは不思議な話である。
また、中高年齢者向きとは思われないのに、この映画の観客はいつもと違って、中高年齢者が多いのも不思議な感じがした。

 ディテールで気になったことをいくつか。
科白がすべて絶叫調で、自然さに欠け、今日的な演技ではない。
登場人物たちが清潔すぎる。
着物が真新しいのは仕方ないのか。
やはり継ぎ当てや綻びがあるはずだし、泥や汚れが付いているはずである。
また、主人公の井上伝蔵(緒形直人)は、北海道で7人の子供をもうけたらしいが、何で生計を立てていたのだろうか。
映画の設定は道具屋だったが、衣服が立派すぎする。

 この映画監督は、正統派を任じていながら、庶民の歴史を美化していないだろうか。
庶民の生活は、つましいものだったはずであり、汗まみれ泥まみれの汚い生活が、そのまま肯定されるのである。
農民は粗野であるがゆえに農民であって、粗野のままで受け入れられる。
上品な着物を着せ、上流階級にも通用する仕草をさせることは、むしろ庶民への裏切りだし、農民生活の蔑視だろう。

 農民の美化は、農民軍に対しても見られる。
一揆に参加した農民たちが、とても統制がとれ、きちんと隊列を組んでいる。
隊列は訓練をしなければ組めないもので、即席の農民軍はもっと烏合の衆だったはずである。
烏合の衆でも、いや烏合の衆だから、われわれは農民に共感できるのである。
自然発生的な農民運動を、統制のとれた隊列としてしまうと、そこにあった農民の生命を見落とすことになる。 
2004年日本映画
(2004.10.1)

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