タクミシネマ        誰も知らない

 誰も知らない     是枝裕和監督

 カンヌ映画祭で何か受賞したというので、ほとんど期待しないで見にいった映画だったが、思わぬ拾いものをしたような得した気分だった。
1988年におきた「西巣鴨子供4人置き去り事件」をもとにした映画である。
時代を精確に切り取っており、正義感と善意に溢れる制作者の意識が伝わってくる。
誰も知らない [DVD]
劇場パンフレットから

 母親けい子(you)と12歳の長男の明(柳楽優弥)、長女の京子(北浦愛)、次男の茂(木村飛影)、次女のゆき(清水萌々子)の4人の子供が、狭いアパートで仲良く一緒に暮らしていた。
ある日、母親は家を出たまま、帰ってこなかった。
残された子供たちは、当惑しながらも何とか毎日をやりすごしていく。
半年後、次女のゆきが死んでしまう。
彼らの生活が世間の注視を浴び、子供たちだけの生活に終止符が打たれる。

 子供の誕生には、男女の営みが必要である。
性交は本能だとしても、子育ては本能ではない。
生まれた子供の世話を、女性だけに押しつけることはできない。
だから家出した女性を責めることはできない。
むしろ、父親に頼らずに母親だけで、ここまで良く育てたと言うべきである。
この映画も、母親を責める口調はない。
母親(父親も)の無責任は当然だが、子供を捨た母親について論じることはしない。


 男性が子育てから逃げている以上、女性に子育てを強制できないし、女性も子育てから逃げる権利がある。
子育てを放棄する権利において、男女はまったく平等である。
女性が自己の幸福追求のために、子供を捨てるのはフェミニズムが肯定する。
子育てを放棄した男性を追って、このような女性が登場することは、フェミニズムが押し出した時代の必然である。
しかし、突き放された子供にも、生きる権利はある。

 子供側の事情に限らず、女性にも個人としての幸福追求権がある。
子供という他人の存在が、女性の人生を拘束して良いはずがない。
産んだ以上責任をとれと言うのは、女性の幸福追求権を否定しかねない。
ここで大人と子供の幸福追求権が、不可避的に衝突する。
独力で生きていけない子供は、どう自立していくのだろう。

 女性の自立を歓迎し、女性の幸福追求権を肯定すれば、子供にも自立してもらわなければならない。
かつて女性には、さまざまな保護があった。
女性の深夜労働は言うに及ばず、残業は禁止だった。
しかし、女性への保護は、女性の自立にたいして障害だと、フェミニズムは主張した。
そして今では女性の保護が、ほとんどなくなりつつある。
自立できないと考えられた女性も、専業主婦を除けば、今では自立した社会人である。


 現在、子供は人格が未完成だから、保護すべき対象と考えられている。
生まれたばかりの子供は、自力では生活できないから、保護者が必要不可欠である。
しかし、保護と差別は、盾の表裏である。
保護と差別が同居する事情は、子供についても変わらない。
ある年齢になれば子供も自立できるが、何歳になったら自立できるのだろうか。
この映画が描く子供たちには、絶対的に保護が必要な年齢だが、主人公の明はすでに自立志向がある。

 12歳の明は、コンビニでアルバイトをしようとするが、年齢制限に抵触して採用されない。
かつての子供は小さな大人だった。
だから子供の彼に、自立しようとする意識があっても不思議ではない。
彼は正義感が強く、同じ年頃の子供が万引きをしても、頑として間違ったことをしない。
仲良くなった女友達サキ(韓英恵)が、援交すれすれのことをやって、彼らの生活費を工面してくれるが、彼はその金を受け取らない。

 彼らに接触する数少ない大人が、警察か福祉事務所に行けと薦めるが、兄弟姉妹がバラバラにされるから嫌だという。
この感覚は非常に良く理解できる。
彼らにとっては、一緒に生活してきた兄弟姉妹だけが、信頼できる本当の仲間である。
彼等の仲を裂かれるのは、何よりも辛いのだ。
途上国の子供を見れば判るように、一番上に生まれたものは、長男であろうと長女であろうと、下の面倒をよく見る。

 現在の福祉制度は、子供たちの希望には添っていない。
子供のためといって、兄弟をバラバラにするとすれば、自立心を持った子供は、福祉制度に頼ろうとはしない。
現在の福祉制度は、子供自己決定権を尊重していない。
保護する立場のものが、相手のためだと言っても、保護される方は納得しない。
それは当然のことだ。
女性も保護を差別と感じたから、保護をうち捨てても、自己決定権を欲して自立を選んだのだ。

 途上国に行けば、十代の子供が家計を背負っていることは、いくらでもある。
彼らは小さくとも、大人と変わらない。
子供を搾取の対象と見ることは許されないが、子供が働きたいときに、それを禁止するのは子供の自立を封じることである。
情報社会では、いかなる人間の自立も止めることはできない。
児童を酷使することは憲法が禁じるところだが、そもそも児童でなくても酷使することは許されない。

 女性が自立した後、残されたのは子供である。
女性の自立が、子供の自立を強制しているから、1995年以降のアメリカ映画は、女性の自立からはなれ、子供を主題にした映画に取り組んでいる。
女性の自立を否定できないとすれば、子供の自立をどう確保するか、アメリカ映画は必死に模索している。
映画製作者は意識していないだろうが、この映画もその延長線上にあり、情報社会の人間関係に重要な思考をしている。


 この映画の美点は、「16歳の合衆国」がそうであったように、制作者と被写体になっている子供たちの間に、距離がないことだ。
多くの制作者・表現者は、問題の子供を自分とは別の人種とみたがる。
しかし、この監督は自分が子供の立場にあったら、という視線でカメラを廻している。
だから、とても複眼的だし、生活感がある。
次女が死んだときに、救急車を呼ばずに母親に電話をしたのは、子供の視線として当然である。

 この映画は、時代の核心に近づいているが、いまだ何が焦点なのだか自覚が弱い。
そのために同時代的な主題を扱いながら、核心に迫り切れていない。
子供の自立に論理が届かず、事実という現実の断片を画面に広げているに過ぎない。
しかし、こう書いたからと言って、映画の製作者を責めているのではない。
女性の自立が未成熟な現代の日本で、ここまで迫れれば充分である。

 主題を離れて、技術的なことに至っても、この映画は特筆できる点がある。
子供に演技をさせないことによって、自然な演技を引き出している。
明はぼそぼそっと喋るのが自然で、その自然を良く生かしている。
大声で叫ぶ場面では、地が出てしまって、演技が破綻しているのはご愛敬だろう。
長女の押さえた動きも自然で良いし、次男の変化もうまく演出されている。

 映画製作の技術では、いくつか問題がある。まず前半が鈍く、カットの長さをもっと短くすべきだろう。
例えば最初の2カットは、心象風景の描写でありながら、10秒を超えている。
もっと短くしても充分に伝わる。
また、学芸会的な画面をなくすべきである。
例えば、羽田飛行場付近でゆきを埋葬する場面では、画面の外には多くの撮影関係者がいることが、はっきりと感じられてしまって興ざめである。

 予算が厳しいため、オールロケでやるのは良いとしても、ライティングにもう少し配慮して欲しい。
露光不足のためカラーの発色が悪い。
全体にカメラワークに難があり、逆光での撮影では画面の一部が飛んでしまっている。
技術は表現を支える重要なものだから、予算がないなりに工夫があっても良かったと思う。

 結論を言うと、技術的な問題点を差し引いても、最近の日本映画には珍しく、同時代的な主題を扱って好感が持ている。
子供を放置する社会への怒りを内面に秘め、押さえた正義感が最後の場面でも良く伝わってきた。
我が国の映画に星をつけるのは、本当に久しぶりである。
2003年の日本映画
(2004.09.03)

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