タクミシネマ    法王の銀行家

法王の銀行家 ロベルト・カルヴィ暗殺事件
ジュゼッペ・フェッラーラ監督 

 1982年に起きた実話に基づいた映画だという。
登場人物も多く、物語が錯綜している。
実に複雑な事件で、いまだに解決していない。
何しろヴァチカンが絡んでいるので、捜査当局も簡単には手が出せない。
この映画は表向きはカソリックの大本山であるヴァチカンを非難してはいない。
しかし、主題はカソリック批判であることは間違いない。
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 カソリックは南米で酷いことをやっている。
独裁政権と結託し、貧しい庶民から財を絞れるだけ絞り上げ、ヴァチカンの金庫へと運び込んでいる。
そして、阿片としての宗教をさかんに布教して、庶民が自立する道を閉ざしている。
プロテスタントと違いカソリックは、一枚岩的な教団を形成している。
ヴァチカンという教団が強力だから、誰も手出しができない。

 イタリアのカソリック系のアンブロジアーノ銀行で、権力争いの頂点についた男がいた。
彼、ロベルト・カルヴィ頭取(オメロ・アントヌッティ)は、ヴァチカン銀行IORの庇護を受け、非合法な手段を使っても銀行を大きくしていく。


 違法活動に気づいた監査役のイタリア中央銀行は、裁判官や検査官を使ってカルヴィを追い詰めていく。
バックについていてくれたヴァチカン銀行は、雲行きが怪しくなるとカルヴィを切り捨てる。
その結果、カルヴィは国外へと逃亡するが、テムズ川のブラックフリアーズ橋の下で、首吊り自殺を装って殺された。

 この映画の見所は、普段は表にでることのないヴァチカン銀行であろう。
世界でも有数の資本力を誇るヴァチカンは、援助という名目で資金を世界にばらまいていることでも有名である。
ヴァチカンが極右であることは世界の常識だが、大金持ちであることもまた常識である。
そのお金を独裁政権を支えるのに注ぎ込んでいるのだが、その実情は秘密のベールに覆われたままである。
その内部事情が語られることは少ない。

 ヴァチカン銀行IORの総裁マルチンクス大司教(ルトガー・ハウアー)は、法王に直属の枢機卿であり、ヴァチカンの金庫番である。
と同時に、彼は豊富な資金力にものを言わせ、民間の銀行を支配している。
それにマフィアや情報機関、イタリアの政治家たちがからんで、利権が動いている。
カルヴィもそれらの一人だった。


 映画は複雑でたくさんの人物描写のため、最初のうちはとても判りにくい。
途中までは、誰がどの派に属しているか、なかなか判らない。
情報部のパツィエンツァ(アレッサンドロ・ガスマン)は、敵だか味方だ判らないし、カルボーニ(ジャンカルロ・ジャンニーニ)はサルジニアの実業家というが、実体はどうもマフィアのようだ。
しかし、ヴァチカン銀行のマルチンクス大司教だけは、アメリカ人であるせいか、終始冷ややかに描かれている。

 最初はカルヴィも上手くヴァチカンと付き合っていた。
両者は持ちつ持たれつの関係だった。
しかし、ヴァチカンへの風向きが悪くなると、法王の意を受けたマルチンクス大司教によって、さっさと切り捨てられていく。
カルヴィも必死で抵抗するが、何せ相手が大きすぎる。
自殺を装って殺され、しかもその自殺の形には、さまざまな隠喩が込められていた。
そのため、ヨーロッパ諸国では、大きな衝撃だったという。

 2000年の歴史を誇るヴァチカンにとって、こんな事件は日常茶飯事だろう。
この映画程度の批判は、ヴァチカンにとって痛くも痒くもないだろう。
過去2000年に渡って、権謀術策に生きてきたカソリックであれば、この程度のことは体験済みで危機でも何でもない。
簡単に闇へと葬るだろう。

 かつては大規模な殺人すら行ってきたカソリックだから、一人の男を殺すことなど朝飯前だろう。
権謀術策はお手のものである。権力のうまみと金の重要さは、誰よりも良く知っているに違いない。
税金を払うこともなく、後継者が絶えることもなく、ヴァチカンは今後も不夜城であり続けるだろう。

 ハリウッドのサスペンス映画と異なり、人物の設定に深みがある。
ハリウッド映画だと正義と悪の対立がはっきりしているが、さすがにイタリアでは全員が何らかの悪人であり、家族思いの善人である。
この人間観察は、物語を分かり難くもさせてはいるが、同時に映画に深みを与えている。
それは現実の人間は、純粋な正義漢もいなければ、純粋な悪人もいないという、単純な理由からだ。

 この映画に登場する男優たちは、みな豊かな色気がある。
禿でもデブでも、それなりのスタイルを持ち、女性関係ではいまだに現役だと思わせる。
アメリカの俳優たちが清潔で健康にすぎ、ねっとりした色気がないのと比べると、ずいぶんと違う。
ヨーロッパ特にラテン諸国では、いまだに男尊女卑が強いので、男性が男でいることが可能なのだろう。
もちろん女性も女で居続けるのだが。


 アメリカでは男性も女性も、性的存在であることを許されない。
性的存在感を漂わせることは、それだけでセクハラになりかねず、男女ともに脱性的な存在になっている。
アメリカ人の描くセックスは、官能からはほど遠く、まるでスポーツのようだ。

 男女が脱性的になるのは、フェミニズムの当然の帰結であり、それだけ女性の社会進出が進んでいることの証である。
残念ながら我が国は、そのどちらでもない。
我が国では、男性も女性も子供のようだ。
そのなかでセクハラ・キャンペーンはいかなる意味を持つか。

 この映画は、たった48人収容という小さな映画館での単館上映である。
日本全国で、48人しか一度に見ることはできないと考える、何だか映画と呼ぶのには抵抗がある。
しかし、内容からすれば、もっと大きなスクリーンで上映されても、おかしくない映画である。

2002年のイタリア映画

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