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インド系イギリス人の少女ジェス(バーミンダ・ナーグラ)は、サッカーが大好きで、いつも男の子と一緒にボールを蹴って遊んでいた。 二人姉妹の二女である彼女は、姉が結婚を控えていることもあって、母親から女らしくしろと責め立てられる。
本人はサッカーがしたくてたまらないのに、サッカー禁止令さえでるしまつ。 性別や役割に従った生き方を強制するインド人社会で、何とか自己の欲求を通そうとする少女の自立を描いた映画である。 女性が男性同様にピッチを走り回る。 我が国では女性のサッカーはあまり見られないが、今や先進国の女性たちは、男性と同様にサッカーに興じている。 とりわけアメリカではプロ・リーグが存在し、有名選手は大層なお金を稼いでいる。 インド本国では、女性がサッカーには興じないだろうが、この映画の舞台はイギリスである。 ジェスはイギリスのインド人社会の因習に絡められながらも、先進国の女性として自立意識をもっている。 だから、彼女は男性に混じってサッカーに熱を上げる。 ジェスは、同じようにサッカー大好き少女のジュールズ(キーラ・ナイトレイ)に誘われて、地元の女子サッカー・チームに加わる。 もちろん、両親に隠れての参加であるが、ジュールズとのコンビで大活躍。 しかし、それが両親にばれて、家庭騒動になる。 決勝戦の日が姉の結婚式と重なって、出場が危ぶまれたり、また、ジュールズが思いを寄せていたコーチを、ジェスが奪ってしまったり、と話題は豊富である。 台詞が棒読みで、演技に学芸会的なところもあるが、話の展開には好感をもつ。 この映画の主題は、インド人女性がサッカーをするだが、女性サッカーという主題を支える論理が、重要なテーマになっている。 それはイギリス社会での、インド文化の認知の方法である。 イギリスでパキスタン人が差別されていることは周知だが、インド人も差別されている。 ジェスの父親は、アジアではクリケットの有力な選手だったが、イギリスでは、どこのチームも相手にしてくれなかった。 だから彼はクリケットを断念し、2度とボールを握らないと誓ったという。 インド対イギリスの歴史的な背景を描きながら、イギリス人であるジュールズの母親には、インド人は目上の人間を敬うので素晴らしい、とインド文化を賛美させる。 そのうえ、インドの結婚式とサッカーの試合をダブらせ、サッカー文化とインドの文化は横並びであり、どちらも同じように人間の文化なのだ、と主張する。 つまり、ジェスのサッカー熱をささえるうえで、文化の平等性という論理が展開される。 しかし、女性がサッカーをすることは、先進国の文化優位性の上に成りたっており、すでに文化の平等性を否定していることに気づいていない。 ハングリー精神が夢を実現する物語。 女性が男性の独壇場であるサッカーにあこがれ、冒頭のニュースのように男性選手を蹴散らす。 インドの少女が、自分の夢を満たすというのであれば、話は単純で理解しやすかった。 途上国の人間が、個人として先進国に殴り込みをかけるのだから、我々途上国の人間は、判官贔屓の痛快な出来事として見ることができる。 しかし、インド文化とイギリス文化が対等だと虚言を呈したことで、話の前提が崩れてしまった。 文化を並列させた所に、この映画の無理がある。 イギリス人であるジュールズが、インド文化に憧れてイギリス社会との軋轢と戦ったというのなら、インド文化とイギリス文化はイギリス人にとって対等だといえる。 しかし、インド人女性がサッカーにのめりこむ前提自体が、すでにイギリス優位の上に成立している。 しかも、試合に勝ったジェスは、アメリカへとサッカー留学に出発する。 ここではまったく先進国アメリカが、無前提に賛美されており、文化の平等性など微塵もない。 文化平等の欺瞞性が、無意識のうちに露呈している。 インド文化とイギリス文化はけっして平等ではない。 インド人がイギリスに流入することはあっても、その反対はない。 日本人がヨーロッパのサッカーに行っても、世界中から相撲の力士が来るわけではない。 文化には強弱がある。 弱い文化に属する人間が、強い文化の世界に憧れるのであって、けっして逆はない。 ジェスが憧れたのは、イギリス文化としてのサッカーであった。 サッカーに打ち込むことは個人技であり、結果として、役割に生きるインド文化からの脱出だった。 役割に生きる途上国では、女性は大人しくして、男性に仕えるために結婚するものだと考えられている。 女性がサッカー選手になるなどもってのほかだし、だいたい女性が自立することすら歓迎されない。 それは男性も同様で、個人的な願望でだけ自分の人生を決めることはない。 性別や長男か否かといった理由で、社会や家族が決めた役割に従って、男性も家族のために生きる。 家族が生産組織である以上、家族を無視しては生きていけない。 それが前近代であり農耕社会である。 個人願望と家族役割のあいだでの桎梏は、近代化途上でのおきまりの悩みである。日本近代文学の最大のテーマだった。ジェスの父親は、自分はクリケットを断念したが、ジェスの人生はジェスのものだ、と言って娘のサッカーを認める。 しかし、各人の人生は各人のものだという、個人の自由を許す感覚自体が、すでに先進工業国のものであり、途上国やインド文化の発想ではない。 この父親が近代化し始めているから、娘の自由を許せるのであって、近代化していない母親には、想像もできない発想である。 穿った見方かも知れないが、この映画がよってたつ論理は、偉大な歴史を過去にもったインドに対してだから可能であり、西洋文化の最盛期に生きるヨーロッパ人の、いわば文化的な鈍感さを象徴している。 いわゆる原住民といわれる人々の文化は、人類学の対象になりこそすれ、自分たちの文化との同等性や等質性を想像すらしない。 この映画のなかで、インド人の結婚式が肯定的に描かれていたが、首狩り人の結婚式がイギリスで行われたら、この映画のように安穏としてはいられないだろう。 世界文化平等観は、大学フェミニズムにいかれた女性が好みそうな、通俗的な偽平等主義者の台詞であり、現実を見ない人間の戯言である。 こうした発言は、先進国に住む楽天的な人間のものであり、差別を広げこそすれ、差別の克服にはまったく役に立たない。 個人の自立は、近代だけが許容するのであり、途上国=農耕社会では個人が自立したら、社会は崩壊する。 途上国の人間は、自国の文化を捨てなければ、先進国と対等に渡り合えない事実に葛藤している。 工業化つまり男性の神からの自立が始まってない社会では、女性の自立が成立することはあり得ない。 工業化=近代化が、人間を個人として自立させ、個人の自立が女性の自立を促しているのだから、産業構造を無視して文化が平等だと言うことは、先進国からの文化の押しつけだと言われても仕方ない。 着物を着ても畑は耕せるが、工場では働けない。 そのジレンマに、途上国の人間は悩まされている。 この監督が、文化の平等性を主張したいのは分かるが、個人を文化に埋没させており、論理が破綻している。 先進国の人間は、世界の文化の評価に関して、きわめて難しい立場に立たされている。 現実の文化には強弱があるにもかかわらず、この監督には文化と個人の位相の違いの自覚がない。 先進国の人間は、文化に優劣があるとは、口が裂けても言えない。 しかし、すべての文化は平等だというと、文化の強弱を無視して欺瞞になる。 すべての人間が等価だとは近代の発見だが、前近代では人間は等価ではない。 前近代というのは、貴族や天皇は清い血の人間であり、支配者は神から支配を授けられたと、見なしていたのである。 だから、生まれながらの血筋や身分によって、人間に優劣があると見なす社会である。 農業が主な産業である社会では、身分秩序は不可避であり、人間が平等だと考えたら社会は機能しない。 身分秩序をうち破ったのは、近代の市民革命である。 ここで初めて裸の個人が誕生した。 近代人が文化を論じるとき、人間は平等ではないと考える文化と、すべての人間は平等だとみなす文化を、等価だと言わざるを得ないから、どうしても論理が破綻する。 この監督自身が、個人と文化の距離を自覚できていない。 前近代的な意識しかもっておらず、個人の自立において近代化が遅れている。 個人と文化を同じ位相でとらえており、しかも、屈折した文化差別意識があるがゆえに、女性の自立たるサッカー熱も、中途半端なかたちでしか描けなかったのだろう。 同じような主題をあつかった「ガールファイト」が、女性のボクシングに絞っていたので、素直に主張を納得できたのに対して、この映画では論理的な破綻が表面化してしまった。 ところで、気をつけなければならないことがある。 途上国的感覚といっても、上流階級では女性が職業を持つことは、当然になりつつある。 途上国の女性には、きわめて優秀な人もいる。 この映画でも、ジェスは法学部に進んで、法曹人になることが前提になっている。 それに対して姉のほうは、結婚して男性に養われることだけを考えている。 女性のこうした二極分解は、途上国の上流階級では当たり前のことであり、二極分解という事実が途上国たるゆえんである。 蛇足ながら、男性文化と女性文化を考えてみると、同じことがいえる。 男性文化と女性文化があるとすれば、女性が男性文化に参入するのであり、男性が女性文化に参入するのではない。 女性は男性から差別され不利益を被っている。 だから、男性社会に反旗を翻したのであり、男性文化が強く女性文化が弱いことは自明である。 いかに女性文化を尊重せよと言っても、強い文化に属する人間が弱い文化にあこがれはしない。 男女という個人は等価だが、男性文化と女性文化は等価ではない。 2002年イギリス映画 |
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