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ビクトリア朝時代に、架空の詩人アッシュ(ジェレミー・ノーザム)なる人物を設定して、米国人文学者ローランド(アーロン・エックハート)が、偶然に彼の恋文を見つけた、と映画は始まる。 有名なはずのアッシュという詩人の人生を、もしこうだったらという想像を巡らした映画で、それなりに面白くできている。 歴史を大切にするイギリスならでは、いかにもありそうな話である。
イギリスに限らず近代のはじめは、どこでも禁欲的だった。 我が国でも売春婦との遊戯ならいざ知らず、堅気の女性と浮き名を流そうものなら、兄弟をはじめ親戚中から、白い目で見られるのが常識だった。 近代に入ろうとするとき、前近代のゆったりした好色が禁止され、堅気の世界では性欲の表出は堅く禁じられた。 とりわけ女性の性欲は、あたかもないもののように扱われ、女性の恋愛はきわめて厳しい監視下にあった。 イギリスのビクトリア朝時代といえば、禁欲もきわまった時代だった。 そうした時代のなかで、一組の男女が恋に落ちた。 アッシュのほうには妻があり、女性クリスタベル・ラモット(ジェニファー・エール)のほうには女性の恋人(リーナ・ヒーディ)がいた。 今で言えば、不倫である。 もちろん許されるはずもないが、それでも二人は求めあった。 とうとう二人だけで旅行に出る。 そして、官能の味を堪能した。 しかし、そのツケは大きかった。 彼女は妊娠したのだった。 話は現代に戻って、詩人と恋人の関係を、同じような組み合わせの男女が、研究心と好奇心から追っていく。 物事を進める主導権は、かつては男性にあったが、いまでは女性に主導権がある。 しかも、男性はアメリカ人で女性はイギリス人とくれば、イギリス女性のほうに主導権が与えられるのは、おきまりのお約束だろう。 現代の女性はモード(グウィネス・パルトロウ)という博士で、男性は客員研究者というと聞こえは良いが、いまだ半人前の助手である。 ビクトリア朝時代の男女と、現代の男女の愛情物語が、互いに交錯しながら映画は進んでいく。 歴史上の発見という誘惑を交え、貴重な資料が高価な金額で取り引きされる話を伏線にしながら、愛情物語は深化をすすめる。 アッシュたちは旅行後、離ればなれになり、しかもラモットと同棲していた女性は自殺してしまう。 ラモットはフランスに渡って、子供を育てるが、二人はとうとう会うことはなかった。 アッシュとラモットは、生前会ったことはなかったという定説を、一枚の手紙から発展させていく。 昔の男女間の謎解きと、謎を解く現代の男女の関係が、交錯しながら話が進む。 禁欲的な性道徳が支配していたことは、現代では想像もつかない。 熱烈な恋愛というと、なにやら美しく感じるが、この映画に限らず、どんな恋愛も結局のところ肉体関係に至る。 しかし、肉欲は不潔なものだから、恋愛を精神作用に特化させ、官能の快楽を精神によって浄化させている。 二人が会うまでは、様々な障害によって感情が高ぶり、切なくも狂おしい思いにさいなまれる。 しかし、旅に出てしまえば二人を妨げるものはなく、結局は性交の喜びを耽溺する。 精神性を歌い上げながら、肉体関係へと収斂していくのは、何だか不可思議な感じである。 おそらく前近代の好色を否定したのは、好色が肉体的な快楽を、直接に肯定したからだろう。 肉体労働が社会を支えた前近代では、肉体的な価値が優位し、肉体が暴力として直接に肯定された。 そのため男女関係にあっても、性的な交換が比較的自由にできたに違いない。 近代は肉体的な働きによって切り開かれたのではなく、頭脳労働とか精神作用といった知的なものが創りだした。 ここで肉体から精神へと、時代の価値が転換したのだ。 つまり、近代を切り開いた倫理は、肉体的な誘惑を肯定せず、頭脳で想定される完全な人間へと、時代の理念を転換させていた。 そのため男女関係においても、肉体的な欲求を全面的に肯定することは許されず、官能への耽溺は否定されざるを得なかった。 男女関係は恋愛という精神作用として、高尚なものと認識され、肉体的な快楽は蔑視された。 しかし、いかな恋愛といえども、精神が精神だけで成り立つはずはない。 結局は肉体的なつながりへと収斂していく。 恋愛感情に支えられた肉体関係も、ふつうの肉体の関係でしかない。 この映画でも二人がベッドに入ると、結局だれでもがやっていることをしてしまうのである。 いかに精神性を歌いあげても、このあたりに近代の欺瞞が透けて見える。 性交のあと妊娠するというのは、受胎に精神活動が介在する余地はない。 精神的な恋愛だったはずが、妊娠という肉体によって決着が付かざるを得ない。 何という皮肉だろうか。 近代は肉体によってではなく、精神によって開かれたとしても、精神は肉体から離れることはできない。 精神は肉体によって裏切られもする。 現代の二人が、恋愛に慎重でありながら、やはり恋に落ちていくのは、近代の呪縛から自由になっていないからだろう。 精神の優位という近代思想は、いまだに我々を深々と拘束している。 政略結婚が当たり前だった時代、結婚には愛情など不要だった時代のほうが、実は意外に精神的な自由に恵まれていたかも知れない。 近代人は精神で立とうとするがゆえに、精神からも肉体からも自由になれないジレンマに悩むのだろう。 二つの物語の同時進行にも違和感はなく、素直に物語を楽しめる。 アメリカ人が主演しているためか、イギリスという設定でありながら、イギリス訛りも強くない。 ハリウッド映画のような派手さもなく、落ち着いた展開は渋好みである。 モードを演じたグウィネス・パルトロウが上手くなった。 |
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