|
|||||||||
|
|||||||||
なんとシニカルな映画だろう。 フィクションとノンフィクションと、前後2部に分けられたこの映画は、両者が絡み合いながら現実を否定し切っている。 ここまでシニカルになると、もはや視線に悪意があるとしか言えない。
1980年代を舞台にした前半のフィクション部分では、小説家を目指す学生たちが、大学院でスコット教授(ロバート・ウィズダム)の文章作法の講義を受けている。 女子学生のヴァイ(セルマ・ブレア)は、身体障害者のマーカス(レオ・フィッツパトリック)と恋仲だが、作品をめぐって対立する。 マーカスの障害者コンプレックスから、とうとう破談になってしまう。 失恋のイライラを鎮めようとバーへいき、そこで出会ったスコット教授に誘われる。 ヴァイは教授との肉体関係を楽しもうと、誘惑にのって教授の自宅に行く。 後ろから挿入した教授は、腰を使いながら「Nigger, fuck me hard」と言えという。 差別用語は口にできないと思いながらも、促されるままに何度も「Nigger, fuck me hard」と叫び、激しく感じてしまう。 黒人である教授のほうから、黒人差別の典型例を白人の女性に強制してくる。 しかも、それで感じてしまい、白人のヴァイは人格がバラバラになってしまう。 その経緯を書いて授業で読み上げたところ、級友たちからは差別の典型だと批判されるが、教授からは物語らしくなったと誉められる。 後半のノンフィクションは、もっと厳しい結末である。 裕福なリビングストン家の長男スクービー(マーク・ウェバー)は、何に対しても興味が湧かず、高校生活も落ちこぼれだった。 トビー(ポール・ジアマッティ)という無能なドキュメンタリー監督志望者が、スクービーの高校生活をカメラに収めたいという。 スクービーの一家はユダヤ系の家系で、マーティ(ジョン・グッドマン)とファーン(ジュリー・ハガティ)という両親と、二人の弟ブラディ(ノア・フレイス)とマイキー(ジョナサン・オッサー)、それに女中のコンスエロ(ルーペ・オンティヴェロス)がいた。 一家の希望の星ブラディは、アメラグの練習中に頭を打って昏睡状態になった。 末弟のマイキーはませた子供で、父親のマーティに催眠術をかけて、コンスエロをクビにするように仕組む。 マーティがコンスエロをクビにしたことから、両親とマイキーは彼女にガスで殺されてしまう。 しかし、スクービーは大学に行けないくらいの成績だったが、なんとプリンストンに入学する。 スクービーは自分からは何もしない。 ゲイだという噂が広まって、ブラディが抗議をすると抗議を受け入れながら、ゲイの相手である男の子の相手をしてしまう。 国語が200点、数学が710点でプリンストンに入学できたのは、リビングストン家のコネのおかげだと、父親のマーティは言う。 真面目でエスタブリッシュに収斂していく人たち、つまり父親と母親それに弟のマイキーはガスで殺され、次男のブラディは昏睡状態になる。 生き残るのは、落ちこぼれのスクービーだけである。 前半では、アンタッチャブルであるはずの黒人差別や、身障者差別をことさらにあげつらい、その偽善性を暴いてみせる。 後半では、目を背けたくなるような差別への反逆はないが、裕福な生活をおくる者たちへの厳しい視線にあふれている。 しかし、この映画が厳しい批判精神ゆえに、観客の神経を逆撫でするのではない。 黒人差別は悪いことだから止めようと言う常識に対して、黒人が「Nigger, fuck me hard」と言うことを強制し、しかもそれで白人女性が感じてしまう。 障害者差別を止めようと言う常識に対して、普通の人にとって差別は気持ち良いのだと居直ってみせる。 前半のフィクションの部分で、正義なる観念を建前だと徹底して押さえ込み、後半のノンフィクションの部分では、皮肉な現実を観客に直視させる。 それをつなぐのは、「事実は表現された瞬間から、すべてフィクションになる」というスコット教授の台詞である。 差別の虚偽性を暴露するという意味では、本音をぶちまけることによって、澄ましこんだ美しい常識を批判する手法で、北野武などと共通する虚無的な視線である。 この映画は、差別を肯定するわけではなく、差別を克服しようとする意志にもまた欺瞞性をみるという、二重の入れ子構造になって、現実を見ている。 差別反対であり、人権派として良識派でありたい観客としては、自分たちの良識が逆撫でされるので、実に居心地が悪い。 ノンフィクションの監督には、「自分だけが理性的だと自惚れている」という批判を浴びせている。 それがこの監督自身への諧謔だとおもうが、それでも足元を切りくずような批判の仕方は、返す言葉がないだけに後味の悪いものだ。 まず第一段階は、大学ので文章作法の授業への皮肉、大学進学制度への皮肉、ユダヤ人への皮肉、裕福な人たちへの皮肉などといった、常識的な批判である。 これは誰でも肯定する批判だろう。 しかし、第一段階の皮肉は、大学関係がきわめて具体的なのにたいして、社会的な話は抽象的である。 裕福な父親の職業さえ登場しない。 その理由は、この監督の社会体験の少なさを物語るのだろう。 現実の社会には興味が向かず、学生的な気分から抜け出ていないに違いない。 第一作だった「ウエルカム ドールハウス」が少女の物語だったように、この作品も身近な話題を自分の力の範囲で映像化しているが、社会批判という形で語られるときには、前半と後半の具体性の違いが目に付いてしまう。 後半ももっともっと具体性に拘るべきだろう。 抽象的な批判であれば、観客は痛痒を感じずにすんでしまう。 毒々しい前半に対して、後半が平板に感じるのは、設定の具体性の薄さだと思う。 沢山の映画からのコラージュが使われて、先達の映画をよく見ている監督だと思う。 しかし、小手先の処理がやや鼻につく。 もっと自分の映像を創るべきだろう。 引用は決して悪いことではないが、引用された方が優れているのは間違いないのだから、安易な引用に頼るべきではない。 「引用するよりも、引用されよ」である。 優れた作家だと思うが、やや先が見えてしまった感じもする。 2001年アメリカ映画 |
|||||||||
<TAKUMI シネマ>のおすすめ映画 2009年−私の中のあなた、フロスト/ニクソン 2008年−ダーク ナイト、バンテージ・ポイント 2007年−告発のとき、それでもボクはやってない 2006年−家族の誕生、V フォー・ヴァンデッタ 2005年−シリアナ 2004年−アイ、 ロボット、ヴェラ・ドレイク、ミリオンダラー ベイビィ 2003年−オールド・ボーイ、16歳の合衆国 2002年−エデンより彼方に、シカゴ、しあわせな孤独、ホワイト オランダー、フォーン・ブース、 マイノリティ リポート 2001年−ゴースト ワールド、少林サッカー 2000年−アメリカン サイコ、鬼が来た!、ガールファイト、クイルズ 1999年−アメリカン ビューティ、暗い日曜日、ツインフォールズアイダホ、ファイト クラブ、 マトリックス、マルコヴィッチの穴 1998年−イフ オンリー、イースト・ウエスト、ザ トゥルーマン ショー、ハピネス 1997年−オープン ユア アイズ、グッド ウィル ハンティング、クワトロ ディアス、 チェイシング エイミー、フェイク、ヘンリー・フール、ラリー フリント 1996年−この森で、天使はバスを降りた、ジャック、バードケージ、もののけ姫 1995年以前−ゲット ショーティ、シャイン、セヴン、トントンの夏休み、ミュート ウィットネス、 リーヴィング ラスヴェガス |
|||||||||
|