タクミシネマ         チョコレート

チョコレート   マーク・フォスター監督

 人種差別がいまだに残るジョージアでの話。
父親も看守、自分ハンク(ビリーボブ・ソーントン)も看守、そして息子ソニー(ヒース・レジャー)も看守という家族である。
引退した父親は、奥さんに自殺されてしまった。
身体も衰えており、生活も満足にできなくなっている。
チョコレート [DVD]
公式サイトから

 今日は死刑執行がある日、ハンクはソニーを厳しく戒める。
にもかかわらず、心優しいソニーは死刑執行に立ち会って、気分が悪くなってしまう。
ハンクは男の優しさが理解できない。
心優しいソニーを、ハンクはだらしない息子だ、と常々思っていた。
職責を全うしないと言って、ハンクはソニーを厳しく責める。
日々ふがいないと思っているから、その叱り方は尋常ではない。

 ハンクは自分が理解できない息子を愛せなかった。
息子のソニーは、父親の内心を知っている。
愛しているのに、父親は愛してくれない。
父親の愛は山より高く、母親の愛は海より深い、というのは嘘である。
子供から親への愛は自然に生まれるが、親から子供への愛は自然に生まれるのではない。
農耕社会では子供に捨てられた親は、老後の生活ができなかった。
だから、子供が親を捨てないように、親の愛情を声高に宣伝し、刷り込んだ。


 ハンクのように古いタイプの人間は、刷り込まれた教えに従って、自分の父親にはそれなりに尽くした。
しかし、自分の思い通りにならない息子のソニーには、愛情を感じないから、冷たくあたってきた。
親の愛とは、子供が親の思うとおりになるときだけ、子供に降り注がれる代物である。
自分が理解できない子供を、子供だからという理由で親が愛することはない。

 情報社会に入った現代の男性は、とても優しい。
そして真実を知っている。
だから自己中心的な親にも付き合う。
しかし、限界を超えると耐えられない。
ソニーも自殺してしまった。この父親ハンクは、息子が死んでからやっと気がついた。
これでも良いほうだ。
息子が死んでも、気がつかない親は沢山いる。

 息子に死なれたハンクは、自分が死刑を執行した囚人の妻レティシア(ハル・ベリー)が、頼ってよろめいたのを好機と、彼女に手をだす。
レティシアは息子も死んでしまった。
孤独になったとき、ハンクが優しげに見えた。
黒人のレティシアには、南部の白人は冷たい。
ハンクはなぜだか、優しくなっていた。
この心境の変化が、映画では充分に説明されていない。

 ソニーが生きているときには、ハンクは人種差別主義者だった。
相手がいくら美人のレティシアでも、ハンクが人種の違いをこえるのは難しい。
ハンクもレティシアも、同じように子供を失った者同士かもしれないが、二人が結びつくにはもう少し手続きが必要だろう。
それは映画だから許すことにするが、この部分を除けば、良い映画である。


 暗く落ち着いた画面が、ゆっくりと流れていく。
いかにも南部の保守性が、画面から臭ってくるようだ。
農業を除けば、たいした産業もない街で、看守であることはエリートだったのかも知れない。
下級官吏の下卑た体制根性が、看守にはふさわしいのだろう。
老いさらばえた父親=男性の、女性をバカにした態度は、権力に自己同化した小役人に典型のものだ。

 産業のない町で、看守だから食えたのかも知れないが、奥さんは食うことよりプライドを選んだ。
だから夫を捨てて、自殺を選んだ。
あの夫=男性なら当然だろう。
しかし、父親はそれでも自分の非人間性が判らない。
父親の内心では、自分ではなく自殺した奥さんが悪者である。
抗議の自殺だったのに、この男性は感じない。

 男性にとって、かつては女性も子供と同等だった。
妻にたいする夫の心理も、子供にたいする親の心理も、同じだった。
この父親の心理が、多くの親の心理である。
親は子供を罵倒するだけで、決して自分を反省しない。
権力をもっている人間が、内発的な正義感にうながされて、自らの権力を手放すことはない。

 この映画は、レティシアを演じたハル・ベリーにつきる。
場末の黒人女性役は、シャープな彼女には似合わない。
それでも、貧乏な環境に生きる姿を演じ、酒を飲み煙草をふかしてみせる。
抜群のプロポーションと、美しい顔立ちが、あまりに傑出している。
普通の女性はあの環境なら、もっと崩れているはずだが、彼女は清々しすぎるくらいに美しい。


 ハンクとのベッドシーンも、男性のビリーを圧倒している。
ビリー・ボブ・ソーントンだって決して下手な役者ではないが、ハル・ベリーのうまさが光っていた。
しなやかな身体が自在に動く様は、オスカー獲得が当然だと納得する。
そして、やや早口ながら、南部黒人の英語が聞きづらいのも、役作りに徹していたのだろう。

 子供の死によって目覚めた父=男性という主題が、いかにも現代的である。
女性の自立によって、男女間は風通しが良くなった。
しかし親子間は、いまだに親サイドからしかものを見ていない。
逸脱する子供に、手を焼く親が描かれることが多い。
それを親の活躍によって、子供を親のほうへと救い出す。
大人の世界が肯定され、平和裏に子供が正常に戻る。

 しかし、歴史は反対だったと教えている。
「卒業」だって「イージーライダー」だって、そしてもちろんビートルズだって、すべて若者のほうが正しかった、と歴史は言っている。
親を肯定する「海辺の家」のような映画が多いなかで、この映画は親の自立を描いている。
子供の自立ではない。
親こそ自立しなければいけないのが、情報社会なのである。

 アメリカ映画は、問題が親子関係にあると判っている。
しかし、子供と親の関係は、男女間の関係よりも、解放が難しいだろう。
当事者の一方の自我が未成立だからという理由ではない。
大人たちが子供に、自分と同じ人格を認識できないからだ。
男性が女性を下に見たように、大人は子供を下に見る。
だから今後、子供は悲鳴をあげて、あちらこちらで死んでいくだろう。

 この映画のように、子供の死を目前にしてしか、親たちは自分を見ることができないのだろうか。
長く生きると言うことは、既成の価値観に拘束されてしまい、愚かになることを意味するのだろうか。
情報社会で年齢を加えることは、きわめて難しいことである。
原題は「Monster's ball」で、死刑執行の前に看守たちが行うパーティの意味だという。

2001年のアメリカ映画   

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