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遅れてきた「ボニー アンド クライド」+「テルマ アンド ルィーズ」と、いったところだろうか。 主人公は二人の女性である。 落ちこぼれた若者が、酒・麻薬やセックスにおぼれる。街は弱肉強食の暴力がまかり通り、男は殴られ、女は強姦される。 すさんだ現代という設定が、何の前触れもなくとおるところが、前記の2本の名作とは違う。
ナディーヌ(カレ ン・バック)は仕事もなく、ときどき売春をして、お金を稼いでいた。 友人の家に居候しているが、友人とは不仲で、とうとう友人を殺してしまう。 もう一方のマニュ(ラファエラ・アンダーソン)は、兄の家に居候して、ハードコアに出演した。 強姦されても、なんの抵抗もせず、命があっての物種だと、平然としていう。 そのマニュが兄を殺し、ナディーヌを誘って、強盗街道をまっしぐらにはしる。 一種のロードムービーである。 女性2人がピストルを手に、強盗殺人から男を襲うまで、何でもありというのは、女性の台頭があれば当然の話である。 女性の原作者が、共同監督を務めるこの映画は、女性からの発言と感じる部分が多い。 男性が犯罪に走るだけではなく、女性も同じ行動をとるだろう。 しかし、映画としては、その必然性を描かないことには、観客は納得できない。 時代の空気に寄りすがった描写は、この映画に関するかぎり説得力がない。 男の逸脱が、酒、麻薬、セックス、強盗、殺人と続くとすれば、女性のそれも同じ道を進むのだろうが、セックスだけはちょっと表れ方が違うようだ。 男性のセックスが女体に挿入し、自律的に腰を使うのに対して、女性がセックスするときは受け身的になってしまう。 この映画でも、男性をピストルで脅して、強姦しようとするが男性が勃起しないので、セックスができない。 勃起した男性器に女性がまたがるのは、女性が強姦したと言えるかも知れないが、勃起というセックスの主導権が男性側にあるので、女性が自律的になれない。 いくら女性が腰を使おうにも、男性が勃起しなければ、強姦自体が成り立たない。 また、女性が後ろからのスタイルを好み、犬のように四つばいになると、これはどう見ても女性が強姦しているのではなく、強姦されているように見える。 セックスでの快感の得方も、男性は意識が希薄になるのは瞬間的だが、女性のそれは持続的である。 そのためこの映画でも、女性はオルガズムになると、まったく無防備になってしまう。 強姦とは相手を支配下におく行為だから、オルガズムを全身で味到している女性は、相手の男性を支配下におけないだろう。 快感の得方が男女で違う以上、セックスにおける男女等価な行動は、難しいようにこの映画から感じた。 社会的に男女が等価になるなかで、個人的にも男女は等価になろうとする。 それは充分に理解できるし、当然だと思う。 男女の個人が、仕事のように成果をだす領域でなら、コンピューターという機械が、個人の非力さを補ってくれる。 しかし、男女のあいだにおいては、女性の肉体構造が、女性の等価になろうとする意志を裏切る。 肉体の構造が規定する意味では、女性のいらいらは男性よりも大きいのかも知れない。 女性の台頭は、女性の男性化を促すのは事実だが、肉体的な構造によって違いが残ってしまうだろう。 わが国のフェミニズムは、個人と社会の位相の違いに無自覚だが、女性の個人的な解放は必ずしも男性と同じになるわけではないようだ。 社会的には男女が、まったく同じ対応になるのは事実である。 しかし、男女間にある個人の違いまで消滅させるのは、むしろ男女の楽しさをなくしてしまうように思う。 男性の勝手といわれてしまうかも知れないが、勃起がセックスでは不可避だとすれば、勃起の契機を確保しなければ、女性にも不利益になるように思う。 もちろんそれに対して、挿入だけがセックスではない、という声があがるのは判る。 セックスはコミュニケーションであり、挿入にこだわるのは男性だけという声もある。 しかし、生殖を別にしても、充実したセックスにおいて互いの性器の結合を否定し切ることはできないだろう。 この事実に、女性たちはどう考えるのだろうか。 オレンジのフィルターをかけたような色調で、デジカメで撮ったような画面である。 それが気怠さを伝えると言えば言えないことはないが、社会的な脱落感と虚無感、それに暴力性が表現できたとは思えない。 「テルマ アンド ルィーズ」は、女性自身のいらいらだけを描いたので、破綻を感じなかったが、この映画では男女間へと女性のいらいらを広げたので、話に無理が生じた。 女性の自立は可能だし、すでに進行している。 社会的には男女が等価であるのは、当然のことだ。 しかし、個人の次元では、問題が山積しているように感じる。 女性からの男性への関係性の作り方を、女性自身の手で確立する動きはまだ見えない。 女性が他者である男性にいらいらをぶつけるとき、どんな形になるのだろう。 2000年のフランス映画 |
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