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1971年、スタンフォード大学がやった実験をもとに、ドイツで製作された映画である。 ある状況になると普通の人が、狂気の行動をする。 普通の人が残虐な行動をしたナチスなどに、向けられた疑念解明のための実験だった。 アメリカでは、この実験が訴訟になり、現在でも係争中であるという。 人間をモルモットにした人体実験は、他にもたくさん行われた。 なかでも1963年におこなわれた、ミルグラムの「服従の心理」は有名である。
タクシー運転手をしているタレク(モーリッツ・ブライプトロイ)は、ある大学の心理学部が出した新聞の求人広告に目をとめる。 それは普通の人が、拘束状態でどんな心理になるかを調べる実験の、被験者求人だった。 看守と囚人にわかれて、2週間にわたってこもるという。 その代償として、4000マルクが支払われる。 彼は雑誌記者だったが、上司と衝突して、今はタクシーの運転手をやっていた。 この実験に参加して、その過程を記事にすることによって、記者としての復活をめざした。 かつての上司から了承をとった彼は、特殊なカメラを組み込んだ眼鏡を手に入れ、準備を整えた。 不思議なことに、ドラは彼に好意をよせ、二人はその晩をともにした。 その後のドラの行動が、この映画に深みをもたせる。 ドラの普通の行動を、もっと見せても良かったと思う。 応募した男性たちには、さまざまな理由があった。 多くは金のためだったが、中には軍から派遣された軍人もいたし、好奇心からの人もいた。 実験開始前に教授が現れ、規則が告げられた。 一.囚人はお互いに番号で呼ぶこと。 二.看守に敬語を使うこと。 三.消灯後の会話を禁止する。 四.食事を残してはならない。 五.看守の指示に従うこと。 六.規則を犯した場合、罰が与えられる。 看守は秩序を守るために行動せよ。 ただし、暴力を用いてはならない。 全員の行動は、テレビカメラが24時間にわたって監視している。 看守の反応を見るために、この実験が始まるとすぐ、タレクは騒動を起こしてみる。 初めは戸惑いながらも、看守たちは囚人を拘束する。 看守に扮した男性たちは、やがて囚人をさげすみ、本物の看守たち以上に過酷な対応を取り始める。 規律に違反した囚人たちに、さまざまな罰則を考えだし、厳しく拘禁していく。 反抗的なタレクは、モニターカメラが見えないところへ連れ込まれ、殴る蹴るの暴行を受ける。 そして、坊主頭にされてしまう。 最初のうちは、遊びだと思っていた囚人たちも、役割に酔いしれていく看守たちを見ると、恐怖心がもたげ始めた。 囚人が反抗したことから、看守たちは暴力をふるい始めた。 秩序を維持するという名目で、看守たちは何をやっても許される心理になる。 囚人役のシュッテ(オリバー・マトコフスキー)を、椅子に縛りつけ、全員の口をガムテープで塞いだ。 男性の助手を拘束し、女性の助手を裸にして、囚人として扱い始めた。 看守たちはバルス(ユストゥス・フォン・ドーナニー)を、リーダーとして暴行のかぎりをはたす。 タレクは暗箱に入れられ、女性の助手は強姦されそうになる。 ここで囚人たちは、とうとう脱走を始める。 結局、シュッテが殺され、看守側も一人が殺される。 実験だから、誰が悪いというのではない。 こうした状況になれば、誰でも残虐な行動に走る。 それがこの実験が示した結果である。 実験で死者がでたので、これ以降こうした実験は禁止されているそうだ。 しかし、この実験の意味するところは大きい。 我々は戦前、天皇制といった狂信宗教の支配下にいた。 今ならああした宗教には、染まらないと思いがちだが、状況さえ設定されれば、誰でも狂信者になる。 このことの確認は、その後の吉本隆明氏などの著作にも表れるように、思想史上の大きな問題になり、共通の確認事項になったはずである。 自分の外に問題をたてるかぎり、それは何の役にも立たない。 社会党や共産党の運動を見ればそれはよくわかる。 心的構造は、状況に支えられている。 そのため思想といったものは、外部的なものとして論じているかぎり、単なる風俗でしかない。 それはどんな思想でも同じである。 男性たちは、こうした実験をするまでもなく、戦争責任というかたちで自己を相対化した。 だから外部化されたままの思想を信じない。 しかし、フェミニズムを選択した女性たちは、思想を相対化して内部化する作業に不得手である。 女性であること=天皇であることを信じている。 今、わが国ではフェミニズムが宗教化し、ややファッシズムの様相を呈している。 フェミニズムは暴力こそ伴わないが、教条的であることにおいて天皇制と同質である。 この映画の描く狂気と、重ならなければいいのだが。 フェミニズムは20世紀が生んだ最大の思想であるだけに、わが国での変質が懸念される。 映画は人体実験を描くだけではなく、その対比として美しいドラとタレクの交流を背景に流す。 ドラが実験の場所へと表れるのは、現実としてはおかしいかも知れないが、普通の人間の行動を挟むのは、物語の流れでは自然である。 ナチを生んでしまったドイツの、反省は永遠に続くのだろうか。 人間の心を弄ぶ実験は、もちろん許されるはずはないが、普通の人がいつでも残虐になるのは、事実であるだけに本当に恐ろしい。 平等の追求はファッシズムにつながりやすいが、それに抗する最後の砦は自由の追求だろう。 自由・平等・博愛という順序は、納得できるものだ。 2000年のドイツ映画 |
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