タクミシネマ        光の旅人 K−PAX

光の旅人 K−PAX   イアン・ソフトリー監督

 1千光年も離れた琴座の近くにある、K−Pax星からきたプロート(ケビ ン・スペイシー)が主人公であろうが、彼を診断するニューヨークの精神科医マーク(ジェフ・ブリッジス)も、重要な役を果たしている。
宇宙からきたと自称する人間は、まず精神病だと思われる。
プロートも精神病院へ収容される。
しかし、マークにとっては彼の話が、どうも本当のような感じがする。
映画はプロートとマークのやりとりを追って、展開していく。
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公式サイトから

 この手の映画の常として、半信半疑のマークに対して、まわりの医者や家族たちはマークまでおかしくなったと見なす。
そして、精神病の患者たちは、プロートを熱烈に支持する。
この構造のなかで、プロートの話がいかに本当らしく見せるかが、監督の腕である。
結論からいえば、半分は成功しているが、半分は失敗である。

 まるで映画のようだという言葉もあるとおり、映画ではあり得ない話が登場するのは、まったくかまわない。
奇想天外、荒唐無稽、どれもOKである。
むしろ奇想天外であればあるほど、豊かな想像力で素晴らしい映画だとさえ言える。
しかし、荒唐無稽であっても、論理に矛盾があると、及第点はとれない。
話のつじつまが合わないと、観客は映画の筋を追うことができないから、論理は一貫していなければならない。


 光より早く移動することはできない、というのが定説だが、それを否定して物語を組み立てるのはかまわない。
人間の格好をした宇宙人も良い。
宇宙人が姿を消すのも許される。
しかし、こちらは姿を消し、こちらは姿を消さないのは、許されない。
この映画はほぼ終盤まで、プロートの平常さつまり彼が宇宙人であると演出してきた。
それを観客は納得して見てきた。

 5年間の地球滞在を終えて、プロートは7月27日の朝、K−Paxへ帰るという。
彼の帰還で物語は終わりそうである。
物語がどのように終わるのかと注目していると、プロートが死体のように硬直して、ベッドの下から発見される。
そして、K−Paxへ地球人1人をつれて行くと約束したので、女性1人の身体が消失している。
このエンディングは、二つの解釈をもたらす。

 まず、プロートは本当の精神病患者で、K−Paxの話は誇大妄想だった。
精神病が進んだので、硬直し何も話さなくなった。
もう一つの解釈は、K−Pax人にとって肉体は不要で、プロートの身体を借りていた。
だから彼が帰った後には、抜け殻の肉体だけが残った。


 両者の解釈はともに無理がある。
前者をとれば、プロートの話が正確すぎる。
天文学者でも何人かしか知らない惑星の軌道計算を、プロートは簡単にやってのける。
ここではプロートは精神病患者ではなく、本当の宇宙人として扱われている。
後者の解釈をとり、プロートが肉体を借りていただけだとすると、女性の身体が消えたのはつじつまが合わない。
だから半分は失敗である。

 この映画の主題ははっきりしている。
情報社会化の進展は、核家族を崩壊させ、個人へと分解していく、と映画製作者たちは考えている。
その行き着く先は、情感の喪失であり、愛情不感症である。
他人に対する思いやりとか、共感がなくなる社会だと懸念している。
プロートを通じて、将来の社会を現出してみせた。
行きすぎた情報社会化に対する批判が、この映画の主題である。

 K−Paxでは結婚もしないし、家族はいない。
生殖行為は嫌悪すべきものだが、仕方なしにやっている。
しかし、進化の進んだK−Pax人は、宇宙のなかで他の惑星の生き物と共存している。
環境を大切にし、生き物との共存をはかるべきだ。
地球人は横暴で、争いばかりしている。
地球人が目覚めないと、地球はこのまま滅亡してしまう、というメッセージが伝わってくる。


 情報社会化が共同体的な人間のつながりを消滅させ、個人的なつながりへと分解していくのは事実である。
共同体ではあり得なかった個人生活が可能になり、プライバシーなる概念がつよくなる。
そのため、個人間の距離が遠くなっていくように感じる。
人間は社会的な動物だから、人間関係が途絶したら生きていけない。
それにたいしての対策は必要である。

 この映画では、それが血縁の家族への連帯と結論される。
諍いをしていた息子と、マークは和解するエンディングである。
もちろん親子が好んで喧嘩する必要もないし、血縁のつながった人たちが仲良くするのはとても良いことだ。
しかし、情報社会では血縁の関係が社会的な意味を失っていくから、個人化がすすむのである。
そこで血縁を大切にしようというのは、同義反復であり反動的ですらある。

 血縁が社会的な意味を失うから、それに代わるものが必要なのだ。
人間という形をしたもの、ただそれだけで解りあえるとか、共通の趣味とか、考えを同じくするとかといった、具体性のないものが、人間関係を支えうる。
個人の意志では変えられない血縁のようなものではなく、心の持ち方で関係を広げることができるようなものを、人間のつながりの核にする。
そんな試みが必要である。

 「バードケージ」「この森で、天使はバスを 降りた」「アメリカン・ビューティ」「グッド ウィル ハンティング」「ツイン フォールズ アイダホ」など、血縁以外のつながりを求めて、試行錯誤している。
時代を後ろに向くのではなく、未来を見る優れた試みに心を打たれる。
このサイトは将来を目指した映画を支持する。

2001年のアメリカ映画   

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