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エンターテインメント系の監督が、時代を反映した作品を撮ることに、アメリカ映画の底力を感じさせる。 分裂病という精神病をあつかった、実在の人物の実話にもとづいた映画である。 実在の人物を美化せず映画化するところに、時代意識の鋭さがある。 そしてこの映画に、作品・監督の両部門で、アカデミー賞を獲得させた、アメリア映画人の見識に敬意を表する。 主題のみならず、脚本も優れたこの作品は、期待を裏切らないできばえだった。
1947年、数学に天才的な才能を示したジョン・ナッシュ(ラッセル・クロウ)は、プリンストン大学の大学院に入学する。 天才とは変人の別名である。 人つきあいの下手な彼は、黙って研究に没頭する。 授業は独創性を失わせるので、まったく出席しない。 志が高いので、くだらない論文は書けない。 従って成果がでないので、焦燥の毎日である。 無秩序な中から規則性を発見することが、科学者の夢である。 彼は鳩の遊び方や、ボールの転がり方にまで、規則性を見いだそうとする。 自然や社会の中から、規則性=法則を見つけること、それが数学であり科学である。 それは自然科学でも社会科学でも同じである。 しかも、その規則性は単純なほど美しい。 数年後、いくつかの定理を発見し、「非協力ゲーム理論」を書くが、彼は一部に認められただけだった。 アリシア(ジェニファー・コネリー)と結婚するも、やがて分裂病が発症する。 暗号の解読をしたことから、国防総省の暗号解読担当になり、エージェントのバーチャー(エド・ハリス)につきまとわれる。 しかし、それは幻覚だった。 分裂病は天才の病気といわれるように、彼の数学的な才能は閃光のように花開いていたが、同時に病気でもあった。 結婚し子供までできるが、これ以降、彼の家庭生活は分裂病との戦いに、明け暮れることになる。 強制入院とインシュリン治療。 精神分裂病は、生涯有病率が1%というありふれた病気でありながら、当時の治療は未熟で残酷だった。 やがて彼は幻覚を自覚し、分裂病であることを克服し始める。 そこには彼を2度と、強制入院させなかった妻の協力があった。 それから約50年後、「非協力ゲーム理論」がノーベル賞を獲得するが、それはおまけである。 アメリカ映画はこれまでにも、「カッコウの巣の上で」「レイン・マン」など、精神病をあつかった優れた映画を作ってきた。 それは肉体から精神へと、時代の価値が移るなか、精神病者を座敷牢に閉じこめておけなくなったからだ。 肉体が中心だった時代には、内科や外科が花形だった。 しかし、頭脳労働こそ最大の価値を、生むものになった情報社会では、精神こそきちんと位置づけられなければならない。 情報社会では肉体の病と同様に、精神の病にも正面しなければならない。 「非協力ゲーム理論」は彼の20歳代後半で発表されたが、ジョン・ナッシュの人生は、30歳で終わったわけではない。 彼にはその後の人生のほうが長い。 寛解したとは言い切れない毎日だが、なんとか幻覚と折り合いをつけながら、日々を暮らしている。 友人の好意によって、後年には、母校プリンストンで教職も得た。 息子はハーバードに入学し、彼は平穏な毎日を手に入れた。 そこへノーベル賞の知らせである。 革新的な理論の評価とは、そんなものだろう。 しかも、彼が精神病院へ入院したり、死んでしまえば、ノーベル賞の対象にはならない。 普通に生きていたから、彼の名誉は回復された。 分裂病との戦いは、壮絶なものだったろう。 奥さんは大変だったろう。 この映画は、困難だったろう日常を、スクリーンの向こうに彷彿とさせてくれる。 それにしてもアメリカとは、すごい国である。 1度も授業に出席しない学生を、たった1本の論文だけで、教授はMITに就職の斡旋をする。 「グッド ウィル ハンティング」でも、天才学生を扱っていたが、才能への畏敬が情報社会をつくってきた。 天才はどこの国にでも同じ確率で現れる。 しかし、天才を評価できるかどうかは、その国の文化である。 映画としてみると、まずメイキャップが注目される。 学生時代から老人まで、ジョン・ナッシュはその姿を60年近く、スクリーンにさらす。 これを演じるラッセル・クロウのメイクが実に自然だった。 最初から老人で登場していれば、彼の年齢を間違えるくらいに自然だった。 そして、彼の演技は「レイン・マン」のダスティン・ホフマンを彷彿とさせ、何気ない演技に素晴らしい俳優であることが判る。 私生活では評判が悪いラッセル・クロウだが、演技は演技であり、演技と私生活は関係ない。 このあたりは成果で評価するのではなく、人間性を云々しやすいわが国の風土と、対照的である。 事実と人格が分離していないわが国の前近代性に思い至る。 事実を希望的な願望でまげてしまう前近代性が、天才を評価できない一因でもあるだろう。 わが国ならどうだろう。かつて天才といわれ論文を発表したが、広く認められたわけでもない学者を、大学は迎え入れるだろうか。 ノーベル賞を受賞して、あわてて手のひらを返したような、対応を見せるのではないだろうか。 いまでこそ「非協力ゲーム理論」は誰でも知っているが、彼が復学を望んだときは、まだ周知ではなかったにもかかわらず、プリンストンは彼を受け入れた。 脱帽である。 映画としても良くできている。 1940年代の知的好奇心にとんだ競争時代、大学での独創性を競っていた雰囲気も良く伝わってきたし、精神病の治療過程もうなずけた。 現実と幻覚の交錯も、観客を上手くだましたし、長い失意の時代を飽きさせずに見せ、ノーベル賞へとつなげていく。 観客の関心を、画面に引き続けた。 そして、糟糠の妻への感謝では、思わずほろりとさせられた。 人間の尊厳を尊ぶ社会では、自由が最優先されるかもしれない。 しかし、精神病はもっともっと厳しいものだ。 この映画は良くできているが、精神病の厳しさを、簡単に描きすぎているようにも思う。 この映画は精神病の一面を描いたにすぎず、決して全面をとらえていない。 そのため、これだけ絶賛していながら、この映画には星2つはつけず、星1つにとどめておく。 2001年のアメリカ映画 追記−面白い記事を読んだので、書き加える。 『ビューティフル・マインド』という奇麗事−何でも単純化するハリウッド方式 天才数学者だが精神分裂症のジョン・ナッシュが、献身的な妻アリシアに支えられてノーベル賞を受賞するまでの愛と感動の物語『ビューティフル・マインド』。この映画は3月24日のアカデミー賞で作品賞他を独占した。 「この映画はウソつぱちだ」。アカデミー賞前後にそんな批判が噴き上がった。シルヴィア・ネイサーによる原作には、ナッシユが公衆便所で性器を出して男を誘ったことで逮捕された事実が書かれていた。また、MITの研究員たちはナッシュがジャック・ブリッカーという男性とキスする姿を毎日のように目撃していたという。しかし映画では彼のパイセクシヤル傾向については丸っきりカットされている。 「あたしの存在が映画から消えている!」 抗議の声を上げためはエレノア・ステイアという女性。ナッシュは最初の子供をエレノアに産ませたが、自分の教え子アリシアと結婚するために、彼女をポロ雑巾のように捨てた。映画のナッシュは女性に奥手で純情な数学オタクとして描かれているが「あんなに女に冷酷な男はいない」とエレノアは言う。 さらにナッシュがライバルの研究員に「ユダヤ小僧」と差別用語を並べた嫌がらせの手紙を送っていたことや、アリシアとの間に生まれた息子もまた精神分裂症を病んでいることも、映画からは削除されていた。そういったダークな部分を映画は全部切り捨てている。そして、ビューティフル・マインド(美しい心)を持つナッシュと妻の純愛物語に美化したのだ。 たしかに事実通りに描いたら観客がナッシュに共感するのは難しい。そこで脚本家は「純粋な心ゆえに社会と相容れない悲劇の英雄」に単純化した。彼がアカデミー脚色賞に選ばれたのは、ハリウッドの大多数が「映画は娯楽だ。事実と違ってもいいじゃないか」と思っている証拠だ。 だからダメなんだよ! 本物のナッシユは複雑怪奇な人間だった。それを単純化したら意味ないだろ! 彼に限らず人の心は複雑なんだから。現実だって同じ。善人がマジメに努力しても幸福になれるとは限らない。愛が必ず勝利するとは限らない。そんな人間の業を描くのが芸術だろ? その意味で 『フランダースの犬』も『人魚姫』も『ノートルダムのせむし男』も子供向けとはいえ立派な芸術だった。ところがそれを最近のハリウッドは片っ端からハッピーエンドの映画に作り変えている。『ビューティフル〜』もそれと同じ。誰か止めろ! 町山智浩著「USAカニバケツ」p184から (2005.12.27) |
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