タクミシネマ         沈みゆく女

 沈みゆく女    リン・ストップウィッチ監督

 女性(ローラ・カシシュケ)が原作を書き、女性がメガホンをとる。とまどいながらも、女性が自己を見つめ始めた。
この映画を見ていると、自己を客観視するという意味で男女が等質になって、本当の意味で情報社会に入りつつあることがわかる。
沈みゆく女 [DVD]
前宣伝のビラから

 舞台はカナダの田舎町のモーテルである。
少ない登場人物、のどかだが雨ばかりの風景、ゆっくりとした展開。
何も爆発しないし、何も壊れない。
ほとんどお金がかかっていない、とすら思わせるほど、地味な小品である。
しかし、この作品の語る意味は、きわめて深く重い。
私たちは、恐ろしい時代をつくりあげてしまった。そう思い知らされる。

 近代へはいるとき、人間は神を殺して、自分の足で立った。
それまでの人間は、身分とか役割とかに生きており、個人として社会に存在しなかった。
父親として、戸主として、男性として、武士として、百姓として、女性として、子供として、……こうした役割が、当人の生き方を決め、その基準に従って人はそれらしく生きた。
裸の個人がいる前に、男性であり、女性であり、武士だった。
だから神殺しとは、同時に父殺しでもあった。

 個人という概念は、近代社会が作り上げたものだ。
裸の個人など、どこにも存在しない。
いるのは男であり、女であり、子供だったり、運転手だったり、政治家だったりする。
しかし近代は、具体的な人間のむこうに、抽象的な個人を想定し、誰でもが平等で同じ人間だといった。
だから誰にでも、一票の投票権があり、二票はないことになった。
もちろん、近代のはじめでは、女性や子供は個人と認められず、成人男性だけが個人だった。
これが近代を作り出した西欧の、新たな価値観だった。
そして今や、女性も人間として自立し、個人なる存在になった。


 近代の個人的な人間観においては、生まれた子供がどう人間へと自己形成するか、は考慮の外だった。
すでに成人した人間しかも男性だけが、独立した個人だった。
工業社会の中盤までは、前近代的な役割意識が生きていた。
だから、老人を敬えとか、レディーズファーストといった価値観が、子供を人間へと教育してきた。
大人たちは自分の欲望を抑え、社会の目に従って自分の生活を作った。
子供たちは、大人たちを見習って成長すれば良かった。

 しかし、情報社会になった今、各々の役割にとらわれずに、個人に生きるように社会から促されている。
男性であることや女性であることを越えて、個人として人間は平等であり等価だという。
男性だとか女性だとかといった役割や規範は、当人の生き方には影響を及ぼさなくなった。
女性だって企業を興しても良いし、酒を飲んでも良い。
男性だって男性を愛してもいいし、家事に勤しんでも良い。


 神を殺した人間には、外的な拘束は何もない。
女性が家庭に閉じこめられている社会は、男女差別だといって指弾されるのが現代である。
男女同一労働、同一賃金が実現されようとしている。
どんな個人も等価である。
だから、希望する生き方が実現できない社会は、差別が横行していると見なされる。
何をしても良い。どんな生き方をしても良い。

 外的な規制から自由になった人間は、内的な信条だけが自分を支える。
しかし、神が死んだいま、内的な信条は個人の裁量に任されている。
個人の希望が、当人の行動を決める。
女性が家庭の外で働いて良いのだ。
もちろん誰に恋をしても良い。
人妻に焦がれても良いし、夫以外の男性とベッドに入っても良い。
前近代では緋文字を背負わされたはずの行為も、今では法律がとがめることはない。

 近代の入り口で男性が神から離れ、情報社会に入る今、続いて女性が神から離れた。
そして、子供が残った。
残った子供の前には、自由で裸の個人がいる。
今や男性もいなければ、女性もいない。
ただ個人がいるだけである。
自由な個人は、自由であるがゆえに、規範をもたないから、子供にとって成長の手本にならない。
子供はどう生きればいいかわからないまま、肉体は成長を続ける。

 子供を産んだ女性という人間は、母親という役割に生きることはせず、個人として生きる。
父を殺して自立した男性と同様に、女性の自立は母を殺した。
母親という役割は、いまや個人の生きる規範ではない。
だから、個人である女性は、この映画のように好感をもった叔父とベッドにはいる。


 子供の見ている前で、夫以外の男性と狂おしくもだえる。
子供はその風景を拒否できない。
やがて、子供を産ませた男性という人間は、産んだ人間を刺殺してしまう。
成人した子供は、結婚した。
しかし、他の男性と肉体関係をもっていく。
しかも、お金をもらって。

 この映画は、既婚女性が売春することを描いているのではない。
自立してしまった現代人たちの、心の有り様を子供の目から描いているのだ。
主人公レイラ(モリー・パーカー)は、同時に少女(メアリー・ケイト・ウェルシュ)である。
レイラの子供時代が、同時進行の少女で表されている。

 映画は成人後のレイラと、子供時代のレイラをならべて描いていく。
観客はやがて少女が、レイラの子供時代であることを知る。
自我の形成を妨げられ、肉体だけが成長してしまったレイラ。
男女ともに成人すれば、否応なくセックスの主体になる。

 年齢秩序を否定した情報社会では、人間の成熟がない。
子供であろうと、大人であろうと等価である。
もはや加齢が、人間的な質を高めることはない。
しかし、精神は成熟しなくとも、肉体は成熟を続ける。
肉体は年齢とともに変化する。
性交を支えるのは体力だから、健康でありさえすれば、肉体はセックスができる。
この映画には、セックスはあるが愛は登場しない。

 神を殺して自由になった人間は、つぎの人間を育てなければならない。
人間を育てるのは、神の仕事でもあった。
いまや個人という人間は神に代わって、子供を人間に育て上げなければならない。
そうしないと人間という種が滅ぶ。
神の助けを借りずに、人間が人間を育てることは、非常に困難なことだ。

 父を殺した男性とともに、母を殺した女性が、神の死にとどめを刺している。
私たちは恐ろしい時代を作ってしまった。
しかし、踏みだしたこの道を、後戻りすることはもはやできない。
この映画は、なんと厳しく自己を見つめているのだろう。
 原題は、「Suspicious River」
 
2000年のカナダ映画    

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