タクミシネマ        光の雨

光の雨     高橋伴明監督

 誰の原作を使うか、どの原作をいかように料理するかは、ひとえに監督の裁量にかかっている。
たとえ原作どおりに撮っても、完成した映画は映画監督のものである。
そう考えるので、立松和平氏の原作を含めて、映画の評論をすることにする。

 フランスにおける1968年の、5月革命に端を発した学生運動は、またたく間に全世界に広まった。
我が国も例外ではなかった。
1970年の頃には、少しでもものを考えていた人間は、必ず学生運動に巻き込まれたはずである。
5月革命の評価は、今後も上がることはあっても下がることはないだろう。
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 近代が個別性へと分化し、人間の全体性を見失っていくとき、人間とは何かが問われた。
工業社会から情報社会へと転換する予兆として、学生たちの運動は、きわめて大きな思想的な営みだった。
我が国では、各地の大学において学生たちが、反逆の烽火を上げ、現代社会への根底的な疑問をぶつけた。
運動が政治的な領域へと拡大しても、思想の探求において少しも減速することはなかった。
 思想が思想だけでおかれることはない。
過激な思想はあるとき、現実の社会へと働きかける。
ここで思想という観念が、いやでも政治の領域へと、背伸びを始める。
表現者たる映画監督は、現実の政治から思想の領域へと、映像における思考を拡大させなければならない。
現実を読み込んで、それを映像として思想化すのが、映画監督の仕事である。
しかし、この映画は、社会的な現象面のみ、それも個人の現象面しか捕らえない。


 この映画は、劇中劇の形式をとっており、連合赤軍の映画を撮るためのオーディションから始まる。
意志の弱そうな監督が、若い役者を面接しながら、配役を決めていく。
なぜ劇中劇の構成にしたのか、理解に苦しむ。
この映画で、重要な位置を占めるメイキングの撮影係に、若手映画監督として阿南(萩原聖人)が登場するが、この人物の役回りがよくわからない。

 原作者の声だろうと思うが、どんな人間もが自由に生きることができる社会をめざした、という台詞があった。
革命を目指したと何度も言っている。
しかしこの監督は、自分で考えた革命の内実については語らない。
そして、連合赤軍へと敗北していった人間たちの思想性を検証しない。
現代の役者に、連合赤軍の人たちを理解できない、とばかり言わせている。
連合赤軍の人たちを理解できないとは、現代の役者の台詞ではなく、監督や原作者の思いであろう。

 監督たちが理解できないにもかかわらず、あたかも役者自身の感情であるかのごとくに役者たちに言わせるのは、卑怯な表現方法である。
この映画では監督も原作者も、自分の生きた時代ときちんと対面していない。
しかも、殺人という現象だけを取り上げて、自分が理解できなかったと言うならまだしも、今の若い人に言わせるのはずるい。

 政治的な闘争が敗北過程に入れば、党派内でも疑心暗鬼を生するのは、きわめて自然なことである。
敗北が死であることは、いくらでもある。
それは学生たちの戦いに限らない。
革命という言葉を美化するために、連合赤軍たちのやったことを切り離して、個別の人を責めることは、監督や原作者たちの自己保身にすぎない。
しかも、映画の途中で、劇中劇の監督を失踪させるに至っては、何をかいわんやである。


 この映画は終始一貫、革命という言葉を美化していながら、革命の内実を語らない。
原作者や監督は素晴らしい社会を夢見たという。
しかし、映像をとおして語られるのは、連合赤軍がその夢を壊したと言うだけである。
映画製作者たちは、政治について考えたことがあるのだろうか。
 自分は人類のために、日本のために、革命を夢見た。
革命をすれば、素晴らしい社会が実現できる、そう信じていた。
監督は原作者にそう語らせる。
しかし、展開される映像は、当時の学生たちは理解できない、そういって悩む役者たちの姿である。
この映画には時代を生きる表現者が、引き受けなければならない真摯さがまったくない。
監督たちのこの視線は、完全に支配者サイドのものである。

 この映画製作者たちは、歴史を考えたことがあるのだろうか。
革命を語りたいのなら、フランス革命の後がどうなったか、ロシア革命がどうだったか、スペイン、ベトナムと例はいくらでもある。
また、監督たちが考えていた革命とは、政治革命なのか文化革命なのか、思考の奇跡はどこにも描かれてはいない。
監督たちはまったく歴史に学んでいない。

 1970年の頃とは、我が国が時代の転換点を越える軋みだった。
学生たちの反乱は、封建制を引きずった我が国の近代への決別だった。
歴史をみないで、個人だけをみていく、それは支配者の視線であり、表現者のものではない。
この視線は、結果として支配者を利する。

 個人は歴史を生きているのであり、政治は歴史に鍛えられてきた。
闘争で死んだ人間を語るこの映画の姿勢は、あまりにも緩みきっている。
この映画は連合赤軍を理解できないと語ることによって、自己の無思想性を免責しながら、しかも、連合赤軍を巧妙に否定している。
表現者として、ずるい姿勢である。


 総括の名のもとに殺された14人の同士が、雪のなかを光の塔のようなものへ、一列になって彷徨していくシーンがある。
そこからこの映画の題名がついたのだろうが、死んだことで彼らの行動をすべて平準化して、死によって彼らを美化している。
連合赤軍のなかにも、様々な違いがあったはずである。
映画製作者たちは、自己の思想性をまったく検証せずに、ただ自分の若い時代を感傷的に懐古している。

 明らかに森恒夫と思われる人物を倉重(山本太郎)と、永田洋子と思われる人物を上杉(裕木奈江)と変名させている。
これも理解できない。
ここまで忠実に作ろうとしているなら、なぜ名前を変えなければならなかったのだろうか。
この映画は、映画製作者たちの虚弱な精神をみる思いだった。
2001年の日本映画

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