タクミシネマ         バトル ロワイヤル

バトル・ロワイヤル        深作欣二監督

 暴力描写が激しくて話題になった映画だが、暴力に関してはそれほどの残虐性はない。
凄惨なリンチや拷問の場面はなく、殺し方が直接的で、暴力に思い入れがない。
殺人という事実だけが見せられるので、心が動かされる前に次のシーンへと進んでしまう。
1つ1つの殺し方などから影響を受けるよりも、暴力が環境化しているのが、問題と言えば問題なのかもしれない。
例え殺人であっても、それを単なる事件としてみている現代。
殺人という重大事に、思い入れをこめない風景である。
そう言う意味では現代的な映画である。
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 子供が大人を尊敬しなくなったから、新教育改革法=BR法ができた。
殺し合うことで教育改革が可能な理由を映画は説明しないが、BR法で選ばれたクラスの生徒は互いに殺し合い、最後の1名だけが残れるというのだった。
抽選で選ばれた城岩中学の3年B組が、そっくり孤島に運ばれてくる。
先生は北野たけしで、40人の生徒は男女それぞれ20人ずつである。
それに加えて2人の男子転校生がいた。
1人は殺し大好き人間で、もう1人は前々年の優勝者つまり生き残りである。


 彼等と警備の自衛隊員以外には、その島には誰もいない。
3日という時間を与えられ、各人が殺し合い、最後に残った者が島から脱出できる。
全員が首に監視装置を付けられて、殺さなければ殺される境遇におかれ、必死で殺しあいを始める。
前年、前々年と、最後の1人が生き残った。
しかし今年は、前々年の生き残りだった転校生が、監視装置を無力化するという反則をやって、彼と男女2人の合計3人が生き残る。
優勝者は転校生だが、彼は島からの脱出の途中で死んでしまう。
他の2人は殺人と殺人幇助罪で全国指名手配になる。
このあたりの描写が判りにくかったが、結末はあまり意味はない。

 子供たちが競争に追い立てられている、そうした社会に対する批判というか、社会描写が主題である。
小さな頃から、受験受験で常に競争にさらされている。
優秀な学業成績から一流企業への就職まで、無形の価値へと子供たちの毎日は収斂されていく。
子供たちが選択しうる道は、専業主婦たち母親が至上とする学校秩序に象徴される世界しかない。
学校秩序しか選択の道はないから、子供たちはそれに適応する以外に道はない。
選択肢が一つしかないなかでの競争といった意味では、クラス中が戦争をしている。
つまり殺しあいをしている。子供社会をデフォルメして社会批判をしているから、BR法とクラスでの殺しあいの関係を説明しなくても良い。


 下手な演技やご都合主義的なところを別にしても、映画としてもそこそこにできており、途中で退場したくなることはなかった。
42人の殺人合戦というのだから、殺し方だけでもいろいろあって退屈はしない。
ただ殺すだけの者から、殺しによって日頃の恨みを晴らす者、殺すことを拒否して自殺する者、監理者のコンピュータをハッカーし逆転する直前に殺されてしまう者など、よく考えられている。
とくに毒殺を企てた女生徒の行動から、疑心暗鬼になって殺し合ってしまうケースは、本当にありそうで驚いた。
目立たない女の子が犯人という恐ろしい設定である。
また、教師も自分の子供から拒否されて、死を選ぶ。

 中学3年生というのは、成熟しているのもいれば未成熟の子供もいる。
そうした中学生の毎日がよく観察されており、それが真実味を増している。
ただ、ああした状況におかれれば、中学生と大人の行動には大した違いはないだろう。
だから、中学生の殺しあいというよりも、競争社会におかれた人間としてみたほうが良いかも知れない。
しかし、この映画は状況を描いたに過ぎず、何か新しいものを提出したというわけではない。

 生き残った2人は、反則を犯したという理由で全国指名手配になる。
官憲に追われるなか、2人は愛を力に逃亡生活にはいるところで、映画は終わる。
男子生徒が可憐で弱々しい女生徒を守る。
この愛には見るべきものは何もない。
今日のわが国の男女関係が、未だに守る男性に守られる女性という次元から抜け出せていないから、この映画もそれを反映しているだけではあろう。
いまだに弱者救済のフェミニズムだから、仕方がないかもしれない。
女性のヤクザ映画も登場しており、強い女性は描けても男女の関係性は旧態たるままである。
この映画でも、個人としては強い女性も登場するが、男女関係は古い倫理観で終わる。


 古い倫理観の存在と、進行する新しい社会の軋みが、生き難さとなってかえってきている。
元気な女性は、必ずしも良い思いができないという現実が、可愛い女性の演技を強請するのだろう。
状況は男性だって同じである。
もはや男性だって女性の分までの働きはない。
自分一人が生きていくのだって大変なのに、女性の分まで面倒を見なくてはならない。
女性も本心では望んではいない、女性保護という不可能を要求されている。
もはや女性は養ってもらいたいとは望んでない。自分で生きたいのだ。
しかし、社会の建前は男性に強くあることを要求している。
ここで本心と建前は完全に分離している。

 戦前の生き難さも同様だったはずである。
戦前すでに工業社会になりながら、江戸時代にあったような封建的な家制度や、禁欲的な男女関係を要求したから、ぎくしゃくしたのだ。
今また情報社会化しながら、建前では工業社会の男女観を押しつけている。
学校が工業社会の根源である。現在の学校制度は、もう情報社会に適応できなくなっている。
それでも、学校秩序を維持しようとするから、この映画のように批判されるのだ。
工業社会の学校制度にしがみつけばつくほど、新しいものは何も提案していないにもかかわらず、この映画の主張が信憑性をもってしまう。

 この映画でも主演した北野武は、工業社会がよく見えているがゆえに、彼の批判は鋭い。
しかし、彼の思想的な存立基盤は、上下関係に厳しい封建的な農耕社会にあり、前近代との比較で工業社会を批判している。
彼の発言は、状況がよく見えているように感じるが、彼は前近代から批判しているに過ぎない。
だから、彼は工業社会を皮肉るだけで、次の社会像を描くことができない。
彼の批判は少しも建設的な批判ではない。
ヤクザ映画でならした深作監督も同じである。
今わが国には、情報社会から見ようとしている人はいるのだろうか。

2000年日本映画

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