タクミシネマ          50歳の恋愛白書

アニバーサリーの夜に
ジェニファー・ジェイソン・リーアラン・カミング監督

 結婚6年目のサリー(ジェニファー・ジェイソン・リー)とジョー(アラン・カミング)が、結婚記念日のパーティを開いた。
そこに参集する人たちを描いた映画で、ごく私的な関係をクールに描いている。
ここでも、生きることに必死な現代人の孤独が、ひしひしと感じられる。
アニバーサリーの夜に [DVD]
劇場パンフレットから

 サリーとジョーは結婚したが、しばらく別居していた。
その彼らが、数ヶ月前から同居を始め、2人のヨリが戻ったようだ。
そこで友人たちを招いての、再度の結婚式のようなものだ。
小説家のジョーは新たな本を出版し、それを自分で監督して映画化する。
サリーは女優で、この映画の主人公は自分が最適だと思っている。
しかし、主人公はスカイ(グウィネス・パルトロウ)という若い女優にいく。

 パーティには、マネージャー夫妻、友人の映画監督や、俳優、元恋人のカメラウーマン、隣人などなど、30人くらいが集まる。
ここに集まる人たちは、自分の考えに正直に生きることを肯定している。

周囲と波風を立てないために、自分の信念を曲げることは、不誠実な生き方であり、信条をはっきりと言うことが真摯さの証である。
それはアメリカ人つまりプロテスタントの生き方である。

 誰もが思っていることを口に出してしまい、あわてて口を押さえるがもう遅い。
しかし、不愉快なことを言われて、一度はかっとなるが、すぐに冷静に戻る。
各人が同じ資質だから、お互いを傷つけあっても、互いに自己に忠実であろうとする。
その心性が互いに了解されており、それぞれの辛さを互いに慰め合う。
ここでは絶対の孤独に悩む、現代人の姿が浮き彫りにされる。

 プロテスタントといえばキリスト教の一派と考えられるが、カソリックを宗教とすれば、プロテスタントは宗教とは異質なものだ。
カソリックと同質の宗教ではない。カソリックでは間違ったことをしても告解すれば、間違いはなかったことになる。
これは一種の生きる方便だ。このシステムがあったからこそ、カソリックは時代とのずれをもっても、何とかやってくることができた。


 避妊は神への背信だと知っていても、神父様避妊してしまいましたと愚痴れば、それでOKである。
免罪符を買えば、罪も解消された。
神の命令は正義だから、時とすると異教徒の殺害さえ、神父は命じた。
それに従った信者たちは、殺人という罪に悩む必要はなかった。
神との話を自分で決着つけるプロテスタントはそうではなかった。
裏表の使い分けが許されないから、プロテスタントは正しい行いをしなければならない。
牧師は神の仲介者ではないから、間違いを訴えてもokをだしてくれない。
各人が抱える悩みは、他人にも言う他はない。
嘘をついてはいけない。
いつも事実を言う。
いわば人間相手に告解する。

 裏表を持たない人格は、薄っぺらで幼稚のままである。
しかし、この幼稚な人格が産業革命を行って、近代を切り開いてきた。
コンピュータの発明も、幼い人格者たちが成し遂げた。
だから、彼らは絶対のあいだで悩むのである。
この映画に登場する人間は、2人のメイドさんをのぞいて、全員が知的労働者である。
監督はもちろん俳優も、かつては河原乞食だったが、いまでは大学卒のインテリである。


 小説家は、いうまでもなく高等遊民つまり無駄飯食いである。
頭脳労働者たちは、自己のよって立つ基盤を求めて、浮遊している。
それがこの映画からも感じられる。
女性も充分に経済力があるので、互いに頼る必要はなくなった。
人間関係が純粋に精神性だけに負うようになり、経済力だとか子供といったものは、人間関係とは異次元のものと見なされるようになった。
どんな物質的な環境も、人間関係を保証しない。
お金があっても、幸福とは無関係である。

 情報社会化するなかで、人間存在の基盤を探さなければならないのは、頭脳労働者である。
この映画でも、メキシコ人のメイドさん二人は、実に落ち着いている。
もちろん、この映画の主題からは無視されているのだが、カソリックを信じるメキシコ人であり、メイドという肉体労働者であるという理由で、彼女たちは神に守られている。

 観念するという神の仕事を奪った人たちは、神の悩みをもまた自分で悩まなければならない。
自立の悩みとは、誰にも理解されないがゆえに、厳しく辛いものである。
そうしたひりひりする神経症が、この映画全体を貫いている。
知的でまじめだが同時に大人になりきれない人物たちの悩みを、冷静に描いた映画である。

 この映画の主題は、実によく理解できるし、共感もする。
しかも、ジェニファー・ジェイソン・リーとアラン・カミングの初めての作品であることを考えると、良くできていると思う。
しかし、映画としてみると、フィクション性に欠け、あまりにも理屈が勝ちすぎている。
通俗的な娯楽性を求めているわけではないが、もう一ひねりほしいところである。

 この映画は、フィルムで撮影されたのではないだろう。
照明の反射具合から、おそらくヴィデオだと思うが、予算があるならフィルムで撮影してほしい。
問題は中身だとは思うが、フィルムとヴィデオはまだ別物であり、劇場で公開するときはヴィデオ作品だと明記すべきである。
2001年のアメリカ映画 

TAKUMI シネマ>のおすすめ映画
2009年−私の中のあなたフロスト/ニクソン
2008年−ダーク ナイトバンテージ・ポイント
2007年−告発のときそれでもボクはやってない
2006年−家族の誕生V フォー・ヴァンデッタ
2005年−シリアナ
2004年−アイ、 ロボットヴェラ・ドレイクミリオンダラー ベイビィ
2003年−オールド・ボーイ16歳の合衆国
2002年−エデンより彼方にシカゴしあわせな孤独ホワイト オランダーフォーン・ブース
      マイノリティ リポート
2001年−ゴースト ワールド少林サッカー
2000年−アメリカン サイコ鬼が来た!ガールファイトクイルズ
1999年−アメリカン ビューティ暗い日曜日ツインフォールズアイダホファイト クラブ
      マトリックスマルコヴィッチの穴
1998年−イフ オンリーイースト・ウエストザ トゥルーマン ショーハピネス
1997年−オープン ユア アイズグッド ウィル ハンティングクワトロ ディアス
      チェイシング エイミーフェイクヘンリー・フールラリー フリント
1996年−この森で、天使はバスを降りたジャックバードケージもののけ姫
1995年以前−ゲット ショーティシャインセヴントントンの夏休みミュート ウィットネス
      リーヴィング ラスヴェガス

「タクミ シネマ」のトップに戻る