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1987年、国鉄の分割・民営化にともなって、大量の首切りが行われた。 その対象になったのは、動労と国労の組合員だった。 動労は経営側とさっさと妥協した。国労だけが、経営者側と対決した。 結局、JRに再就職できない人が、千人以上も生まれた。 なかでもその9割近くが、国労組合員であった。 明らかにこれは、所属する組合の違いによる不当労働行為である。 しかし、国鉄とJRは別会社である。 闘争は困難を極めた。 映画は、主として3人の登場人物を追いながら、国鉄の闘争過程をおっていく。 経営者側の切り崩しにあい、20万人を誇った国労の構成員は、2万人へと激減した。 差別と不当労働行為にもめげず、残った国労の組合員たちは、闘争を続けていく。 国労に残ることは、明らかに不利だと知りつつ、彼らは現在も国労の組合員として闘争している。 この映画は、国鉄民営化のドキュメントではない。 あくまで国労側から撮った、一種の宣伝映画である。 宣伝映画とは言葉が悪いが、現在から見ると労働者という言葉が、空虚に響くほど組合運動は、空洞化してしまった。 かつては労働者のほうに、正義があるのは当たり前で、労働者が宣伝映画など作る必要はなかった。 しかし、経営者VS組合といった形では、もはや時代が見えなくなってしまった。 映画製作者は、闘う人ほど人らしくというが、本当のところはどうなのだろう。 国鉄がやったことは、まさに不当労働行為であり、正義は国労組合員にある。 経営者側は正しくない。 それは明白である。 しかし、膨大な赤字を抱え、将来に何の展望も見いだせなかった国鉄の経営再建は、焦眉の急だった。 国鉄労働者にとっては、経営再建が首切りになることは許容できないが、国民にとっては国鉄の存続は、無駄な税金が費消されていくことだった。 民間企業なら、会社が倒産すればすむ。 しかし、国鉄は国有企業である。税金をつぎ込んでいくから、いくら赤字をだしても倒産しない。 1987年当時は、労働者というだけで、その存在は正しかった。 だから、労働者の首切りはとんでもないことだった。 悪いのはすべて経営者である。 労働者は与えられた仕事をこなす立場でしかない。 国鉄の経営者が責められたが、結局そのしわ寄せは労働者の首切りだった。 国鉄民営化にともなう解雇は、現在進行しているリストラの先行形態だった。 しかもそのリストラが、国労という労働組合員をねらい打ちにした。 経営者側は、国労の御用組合化をはかったのだ。 国労は総評の支持母体だったから、自民党にとって政治問題でもあった。 政府・自民党は国労をつぶしにかかった。 だからこの問題は、経営者VS労働者という雇用の問題をこえて、政治の問題になった。長いものには巻かれろ、泣く子と地頭には勝てない、は正しくない。 正義を追求すべきである。 国労の主張も正しいし、それを支持する映画も正しい。 しかし、この映画を見終わった後には、なんだか割り切れないわだかまりが残った。 組織労働者という存在に対して、個人で働く零細職人たちは、最初から別世界の人間だと思っている。 むしろ職人は、体制側のセンスに近い。 自分の生活は貧しいのに、簡単に体制側に組み込まれてしまう。多くの職人仕事が、経営者によってではなく、時代によって消滅させられた。 下駄屋が、桶屋が、鍛冶屋が、染物屋が、……が、時代の波によって、仕事を失っていった。 どんなに優れた技術を持っていても、仕事自体がなくなってしまう。 誰も下駄を買いに来ないのだ。 仕事の減少は、ほんの少しずつ始まった。 そして、1人が職をたたみ、もう1人が職をたたんだ。 いつの間にか、下駄屋は誰もいなくなった。職人は誰に看取られることなく、しずかに姿を消した。職人の食い扶持は、組織が守ってくれるわけではなかったし、政府が関心を持ってくれるわけでもなかった。 長い修行の果てに身につけた技術が、時代から不要だと宣告され、職人は誰に文句も言わず消えた。 そんな世界にいると、労働者といった響きが、空々しく聞こえる。 雇用を守れだって? 自分の身は自分で守る以外にはない。 仕事の仲間だってライバルなのだ。 国鉄一家という言葉があった。 国鉄の労働者だけではなく、経営者も含めて、一家だったのだろう。 国鉄職員は、すべてが身内だった。 国鉄という巨大な家族共同体だった。 しかし、家内工業でやっていくには、時代が許さなくなった。 一家の解体を迫られたとき、内部紛争が起きた。 言うことを聞かない子供を、冷たい親が勘当した。 分割民営化は、そう見える。 この映画で印象的だったのは、国労は家族的で温かいという発言である。 国労は家族的だとか、家庭的だといった発言を、何人もの人たちがしていた。 それは国労だけではなく、国鉄が家族的だっただろう。 いや戦前からの企業は、その多くが家族的だったのだろう。 当時は、家族的であるほうが、経営が上手くいったのだ。 家族的な経営では、たちいかなくなったので、家族的経営をやめた。 それが国鉄民営化だろう。本来、企業とは利益追求集団であって、共同体ではない。 にもかかわらず、封建的風土が残るわが国では、家族的な経営が上手くいった。 共同体的な資質が国民にあったから、国民も家族的な経営を歓迎したのだ。 しかし、資本主義の先鋭化は、企業を本来の利益追求集団へと追い込んだ。 家族的な余裕を失わせた。 何と皮肉なことだろう。自分たちで、家族的関係を切り捨てていながら、今頃になって家族をたたえる。 職場が家族になぞらえて運営されなくなった。 家族は生産現場に根拠をもたなくなった。 時代に適合するためとはいえ、家族を壊したのは体制側である。 決して若者の暴走ではない。 家族を壊された庶民が家族的な資質を、懐古するのは仕方ないが、壊した政府・体制側が家族を称揚することは許されない。個人化する時代には、国労的体質では生き残れない。 頭脳労働には、労働者団体といった組織は、ほとんど役に立たない。 むしろ組合組織の幹部は、経営者以上に時代感覚がない。 家族的組織の幹部は、堕落する。 日本軍だけではない。 利益の刺激がない組織の幹部は、自己保身と自分の利益に邁進する。 幹部であっても、組合員という他人のためには、働き続けることはできない。 労働者は正しい。 国労は正しい。 正義は国労にある。 政府・経営者側そして国労幹部は、欺瞞に満ちている。 彼らは唾棄すべき存在である。 しかし、映画を見終わっても、残念ながら正しい国労に、心からの支援が送れなかった。 ところで、解体・民営化が叫ばれている特殊公団の労働者は、民営化反対闘争を行っているのであろうか。 それとも民営化されても、雇用が保障されているのだろうか。人らしく生きるというが、時代によって人らしさは変わってくる。 時代だけではなく、組織労働者と零細職人では、人間観が違う。 組織労働者の人間観は、工業社会のものだ。 情報社会へと転じる今、働くことそれ自体が問い直されている。 この映画は、時代に取り残されていく視点だけで、今後の時代への展望を語れなかった。 2001年の日本映画 |
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