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10歳くらいの少女・千尋(ちひろ)が、両親に連れられて、車で引っ越してくる。 彼女は投げやりで、無気力である。 父親の運転する車は、道を間違えて森の中に入ってしまう。 するとそこには、バブル時代に建てられた、不思議な建物があった。 建物の長いトンネルをぬけると、野原にでた。 やがて街が見え、飲食店があり、美味しそうな食べ物が、並んでいる店があった。 いわば昭和初期のテーマパークである。 両親はそこで食べはじめるのだが、千尋は食べない。 通りのはずれに大きな銭湯のような建物があり、そこに近づくと少年ハクが、帰れといってくる。 その剣幕に驚いて千尋は帰るが、街は夜になり始めている。 両親のところへ戻った千尋が見たのは、豚に姿を変え浅ましく食べ続ける姿であった。 つまり、そこは神の国だった。 銭湯は神達が癒しにくる、一種の歓楽場であった。 もう千尋は逃げることはできない。 銭湯の中に入り込み、なんとか生き延びることを考える。 ここで無気力な少女は、大変身を遂げる。
話はなかなかにできており、決して退屈するわけではない。 しかも、現在のアニメーションは、実にリアルである。 とくに流れていく雲や、水の表現は、もう実写かと思えるほどである。 また、登場するキャラクターもよく考えられており、あれを考えるだけでも大変な作業だと判る。 今回の動画は、韓国のスタッフが大勢参加している。 ハリウッドに日本人が参加するのとはちょっと違うが、それでも国際分業が始まっているのだろう。 しかし、話は現代社会批判の連続で、一つ一つのエピソードにお説教じみた匂いが強い。 無限の欲望をもつと、豚のように太ってしまう、という道徳的なたしなめだ。 こうしたお節介が至るところにある。 千尋に、両親が太ってしまうのはイヤだ、と二度も言わせている。 無限の欲望にしたがうと、醜い肥満になるという恐怖である。 これは明らかに近代を誤解している。 無限の欲望は、いつの時代にもあり、それが人間を進歩させてきた。 近代に固有にあるのは、生産における無限の欲望であり、欲望一般ではない。 生産における欲望は、農業社会にあっては土地の限界性から逃れられなかった。 誰でもが土地の生産性のなかで暮らさざるを得なかった。 近代になって工場労働が誕生し、物への労働がはじまると、土地の限界性から自由になった。 だから無限に生産が伸びるとおもい、生産における欲望の枷がとれたのである。 身の程をわきまえるというのは、生産が土地に限界つけられていた時代の生きる術である。 身の程をわきまえた時代には、勤労を必ずしも尊ばなかった。 食える分だけ働いて、あとは遊んで暮らしたのが、前近代である。 近代になって土地から切れたから、欲望が豊かな社会を生んだ。 そこでは働くことが良いことだという、勤労を尊ぶ道徳が生まれたのも当然だった。 銭湯のなかに入らざるを得なくなった千尋は、なかの女主人に千という名を与えられて、労働許可をもらう。 銭湯のなかでは、働かない者は、魔術によって抹消されてしまうのだ。 最初に無限の欲望はよくないといっており、ここでは働かない者は存在意義がないという。 働くことを良しとしたのは、近代つまり欲望を肯定した社会の価値観である。 明らかにここでは、価値観の使い分け、混乱がある。 銭湯のなかで、顔なしというお客が、金を大盤振る舞いする。 それにこたえて、従業員達は至れり尽くせりのサービスをする。 千は金を欲しそうな素振りを見せない。 千の無欲が肯定されている。 だから、金には目もくれない。 人間は欲望に溺れることなく、正直に一生懸命に働けば、幸せがくる、とこの映画はいっている。 勤労を肯定したうえで、金に執着するなというのは、典型的な支配者の思想である。 この映画がよって立つ基盤は、完全に工業社会の勤勉に働き貯蓄に励む、といったものである。 しかも、川や山といった自然賛美があり、いかにも現代的な装いを振りまいている。 しかし、映画は現代社会の混沌をそのまま反映しており、何の論理的な整理もなされていない。 身の程を知らない欲望は破滅であり、分に応じて一生懸命に働けば幸せが得られる。 こうしたメッセージは、現在の不景気時代やフリーターといった、若者の身勝手さを批判しているのだろう。 しかし、この映画のいう労働とは、身を粉にする肉体労働であり、決して頭脳労働ではない。 懐古する後ろ向きな姿勢は、いうまでもなく何も生みださない。 この映画自体が工業社会の技術の上にできているのだから、工業社会は否定されるべきではなく、むしろ工業社会の先に何が可能かを考えるべきである。 千と龍の化身である若者ハクとの愛情をからめ、アニメーションでおとぎ話の体裁をとっているので、誰でもが楽しめるかのように感じるかもしれない。 しかし、この映画を貫く主題は、あきらかに良き市民の再生をねらったものである。 分を守り与えられた役割を果たす。 よき勤労者こそ良き市民だ、そういう主題は支配者のもので、共産党的でファッシズムでさえある。 この映画でも愛情が語られるが、それは相も変わらず若い男女間のそれである。 若い男女の愛情賛美も、近代のものであり、現代の愛情は年齢・性別・人種をこえたものである。 徹底的に個人に分解されるとき、工業社会の価値観をうたっても、何の役にも立たない。 戦前を見れば判るように、それはむしろ犯罪ですらある。 この映画では、自然賛美や家族愛を普遍的なものととらえている。 家族の崩壊が頭のかたすみにあるのだろう。しかし、どんな価値観も産業社会の支配下にあり、家族とて例外ではない。 個人化する家族の時代に、いかなる心的な構造をつくるのか。 それが問われているにもかかわらず、この映画は実に脳天気楽に、旧を懐古している。 「もののけ姫」は時代設定が古かったので、監督のファッショ的な体質が表面化しなかった。 しかし、現代に時代を設定すると、問題点が露出してしまう。 アニメーションの技術は素晴らしくても、描かれる主題は古いものだ。 体制内人間の生産をめざした、文部省推薦の映画である。 2001年日本映画 |
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