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飯島夫婦が家作りを計画したところから、この映画が始まる。 テレビドラマの脚本家である夫の直介(田中直樹)は、奥さんの民子(八木亜希子)に引きずられるように、家作りの計画は進んでいく。 民子の友人のインテリア・デザイナー柳沢(唐沢寿明)が、設計者として指名される。 施工は民子の父親の岩田長一郎(田中邦衛)である。 彼は普通の大工だが、自分が棟梁として請け負うことははない。 いまや下請け仕事ばかりである。
現代的な感覚の民子と、アメリカ帰りの柳沢にたいして、今風の大工根性に染まりきった岩田棟梁が、それぞれに自分の好み主張する。 この設定を聞いただけで、問題が噴出することは、火を見るより明らかである。 いい仕事を実現するためのスタッフ集めではなく、人間関係を優先した義理と人情の寄り合い所帯である。 関係者たちの感覚の違いからくるズレを、喜劇として見せようとしているが、観客席から笑い声は上がらなかった。 家が完成しないのかと思えば、それは映画であるから、何とか最後には家が完成する。 設計とはデザインであり、一級建築士であるか否かは関係ない。 建物全体を設計した経験がなくても、図面を描くといった基礎的な実力があれば、あとは熱意が経験を補う。 誰でも未経験から出発するのだ。 構造や法律をチェックする人間として、岩田側から一級建築士が登場する。 これにより、設計と施工が別種のものだという主張が、くっきりと浮かび上がった。 しかし、設計と施工の本質的な違いを、監督はよく判っていない。 設計とは新たな物や空間を生みだす作業であり、施工とは繰り返しによって洗練される仕事である。 だから両者には、まったく違う資質が要求される。 表面的には設計と施工を分けていながら、結局は両者の資質は同じである。 一見すると異質だが、実は同質という構造は、わが国の現代社会を反映したものであるだけに、とてもやるせなかった。 最初のうちは対立していた岩田と柳沢だが、工事が進むにつれて、二人は意気投合するようになる。 設計と施工が対立するのは、その来歴や立場からして当然であり、両者が意気投合するのはおかしい。 しかし、デザイナーであるはずの柳沢が、実は古いものを復元するだけの職人だったから、おかしなことに意気投合がおきる。 最初、柳沢はアメリカで仕込まれたモダン・クラシックの様式を実現しようとする。 それはわが国から見ると、建築現場とはそぐわず、抵抗の多いものだった。 デザイナーたらんとする柳沢は、自分のデザイン・ポリシーを貫徹しようとする。 しかし、民子・直介と父親たる岩田の人間関係に阻まれて、それが実現できない。 それでも柳沢はアーティストだと錯覚している。 土着対外来の対立は、どこでも見られる。 外来派がかっこいいイメージを売り物にするのにたいして、土着派は堅実な物をいつもの人間関係の中で実現しようとする。 これには納得だが、柳沢のたつデザイン・ポリシーが、じつはまったく古いものであることに、がっくりとしてしまう。 設計とは新たな物や空間を創るという、誰の援軍もない孤独な作業である。 古いものを参照するかもにしれないが、それは新たなものを生みだすための資料にすぎない。 工業社会的な生産に明け暮れるわが国を、彼は古いものへの懐古観で批判する。 柳沢は新しいものを追求しているように見えるが、彼の追求するのはアメリカでは定番であり、古いものである。 柳沢は岩田と同じ立場だから、最後には両者が意気投合してしまう。 この映画が、懐かしく古いものを再生しようとしているから、こうした展開になるのだろう。 営業力を持たない大工が、かつてのように棟梁を張っていられなくなったのには、はっきりとした理由がある。 街の大工の作る家が、あか抜けないだけの理由ではなく、彼らの不勉強に原因がある。 自分たちの既存の技術が、新たなもの生みだすのではない。 楽だ早いという理由だけで、昔の仕事を捨てて、新しいものへと飛びついた。 そこには技術への愛着ではなく、利益への愛好しかない。 利益への愛好では、企業が有利なのは当然である。 すべて手の道具でやっていた時代、大工仕事は厳しい肉体労働だった。 しかし、かつての大工であっても、手間は一坪当たり4人工前後だった。 それが電気の機械をたくさん使うようになった現在でも、4人工程度であることは変わりない。 電動の道具を使うようになっても、仕事の速さは変わっていないのである。 仕事の速さが落ちているにもかかわらず、職人たちは自分の腕は、いつまでも優れていると錯覚している。 伝統的な技術は体系的なものであり、一部が欠けると、全体が崩壊するのは時間の問題である。 技術は一度使わなくなったら、その復元には同じ時間がかかる。 大工の棟梁が、左官下地から小舞屋を追い出したとき、建て方から鳶職を追放したときに、伝統技術は崩壊の一歩を踏みだした。 きびしく言えば、岩田大工が和室を施工するのは、もう無理である。 しかも彼自身の日々が、和風の生活から離れている。彼は和の精神に生きていない。 だからといって、職人の技術が低下していると、思わないで欲しい。 明治時代に行われた東大寺の修復より、昭和の修復のほうがずっと優れている。 また、鉋を使うことにかけても、江戸時代の職人より、現代の職人のほうが優れている。 ただ日々の生活レベルでは、昔から受け継がれた技術以上のものが、たくさん登場してしまった。 だから鉋で削る必要がなくなってしまったのである。 柳沢が学んだアメリカの技術も、その一部だけをわが国に移植することはできない。 ここでは技術の変質がある。 しかも柳沢の技術は、アメリカでは古いものなのだ。 古いものでも、わが国では珍奇だというだけで、新しくてセンスのいいものと一目置かれてしまう。 わが国の古いもの対アメリカの古いもの、といった構図がどれほど漫画じみているか。 そして、そこに参加できないと焦る直介のみじめったらしさ。 岩田のほうにも、現在を生きることができない大工の悲哀があり、柳沢のほうにも時代錯誤がある。 そのあいだに挟まって、人間関係で苦労する直介と民子は、市井の普通人であるがゆえに、これもやりきれない思いである。 こうした構造が見えているから、現代の建築主は身近な大工を捨てて、すべてお金で片がつく建築会社へと向かう。 三谷監督が、古いものへの懐古観にあふれているのは、この映画でよくわかった。 テレビという毎日がお祭りのような場にいると、しっかりと地に着いたものが欲しくなるのであろう。 だから伝統へ回帰したいのだろう。 そして、彼は古いものへの懐古が、大衆受けすると知ってもいる。 大衆は新たなものなど望んではいない。 口では改革とか刷新などといいながら、内心は常に古いものへの憧れで生きている。 古いものが癒してくれ、和ませてくれる。 三谷監督も創造者ではなく、まごうことなき大衆の一人である。 それは私が、この映画のデザイナー柳沢と同様に、建築の設計を生業としているからかと思っていたが、その理由はどうやら違うようだ。 自分が描かれる対象になるのは、落ち着かないものだが、この映画がヒットするわが国の構造に、落ち込みを感じている。 社会は不可避的に新たなものへと進みながら、そして表面的には新たなものを追求するように見えながら、古いものへの懐古を肯定するこの映画に無力感を感じている。 アメリカの映画が、新たな価値観を捜して苦闘しているのとは、まったく雲泥の違いである。 日々新たなものを生み出そうと、企業は研究開発に努力しているにもかかわらず、娯楽の世界では古いものへの郷愁に生きている。 激しく進む時代に、この映画は癒しになるのだろうか。 寅さんの映画のような位置なのだろうか。 もはや日本映画は、新たな楽しみをつくりだす力を、失ってしまったのだろうか。 この映画は、家作りに場を借りた日本人論であろう。 映画としてみると、随分と無駄が多い。 まず、直介の職業が展開のなかで効いていない。 冒頭からストーリーでディレクターともめるが、それは彼の性格描写としては長すぎるし、この映画の主題と関係ない。 彼の職業の説明は、もっと簡単にすむはずである。 そして、直介が三谷監督の分身なら、職人に挟撃される直介の悩みを、もっと丁寧に描くべきである。 蛇足ながら、大工を演じた田中邦衛が、職人の顔をしていなかったし、職人の雰囲気をもっていなかった。 今後はどんな俳優も、肉体労働者を演じるのが難しくなっていくだろう。 また民子を演じた八木亜希子は、最初はちょっと馴染んでいなかったが、すぐに画面での違和感はなくなった。 2001年の日本映画 |
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