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主人公は中国系のシンガポール人。 イギリスで育ちアメリカへ渡る。 USC(南カルフォルニア大学)の大学院で、ジェンダー・スタディを勉学中の女性である。 彼女の名前は、アナベル・チョンで、本名はグレース・クェックという。 この女性が、人類学を学ぶ途中で、フェミニズムに目覚める。 いままでセックスの支配権は、男性の手中にあった。 それを取り戻すためには、みずからセックスの主導権を取る必要がある。 そこでまず、大学中の男性とセックスしてみたが、何も変わらなかった。 彼女は何かを変えるために、ポルノ女優になる。 現在のポルノ映画は、演技ではなくセックスの実演である。 しかも、こうこうと照明がつく中で、セックスを演じてみせる。 ポルノ映画は、フィクションとしての映画ではなく、ドキュメンタリーといったほうが良い。 このアナベル・チョンがポルノ映画の舞台で、300人の男性とセックスを演じようとした記録映画である。 実際には251人でとぎれたが、膨大な人数であることには間違いない。 まずアメリカ中に広告をだして、相手になる男性を集める。 そして、集まった男性たちと、つぎつぎにカメラの前で、セックスをしていくのである。 男性がこの手の挑戦をするのは良くある。 表沙汰にはならないが、男性仲間では称賛され蔑視の対象にはならない。 しかし、女性の場合は、尻軽女と呼ばれて蔑視こそされ、称賛されることはなかった。 そうした意味では、女性がこうしたGang-bangと呼ばれるパフォーマンスをすることは、一度は意味がある。 ましてや10時間内に251人の相手をするのは、男性には不可能であることだし。 彼女は251人切りだと胸をはったが、それは当然であろう。 性の自己決定権を女性の手に、これがフェミニズムの主張の一つだった。 自らの主導権で、男性の相手をしているのだから、胸を張れるわけである。 この映画は、251人の男性を相手にしたセックスシーンを、えんえんと見せるものではない。 むしろセックスシーンは少ない。 彼女の生い立ちや日常を主な流れにしながら、彼女の発言をはさんでいく。 中国系の彼女は、白人男性と並ぶと小柄である。 その彼女が大きな男性を相手に、10時間にも及ぶセックスをするのは、ちょっと考えもつかない。 前宣伝のビラによると、「痛かった」が感想だったらしい。 このパフォーマンスにより、彼女のビデオは売れまくり、彼女のギャラも上がる。 ただし、このパフォーマンスは無料出演だった。 なんのためにするかの説明はできないだろう。 それに説明する必要もないかもしれない。 数多くの異性とセックスすることに、また一人の異性とセックスすることに、大した意味があるとも思えない。 セックスは、レスリングの試合をしたとか、本を読んだといったことと、それほどの違いがあるとは思えない。 セックスを特別視する必要はない。 したければするし、したくなければしないでよいのだ。 この彼女が潔くすがすがしく感じるのは、彼女の自発的な希望として、このパフォーマンスがおこなわれたことである。 彼女の主体的な選択の結果のパフォーマンスだと、よく伝わってくる。 しかし、中国系のシンガポール人で、英国育ちのUSC在学中という経歴が少し気になる。 彼女の次に300人切りに挑戦するのは、カルフォルニア生まれのアメリカ人だから、アジア系女性だということに拘る必要はないかもしれない。 映画のなかでは、彼女がオリエンタルであることには、何の偏見に曝されていないように見える。 しかし、マイナリティゆえの、ヒロイックな行為にも見え、痛々しく感じたのも事実である。 セックスとは二人の関係を、確認する行為だったはずである。 その意味ではこのパフォーマンスも外れてはいないが、彼女はボーイフレンドとのセックスを語らないのである。 彼女には長年付き合ったボーイフレンドがいながら、彼とのセックスはまったく描かれていない。 何だか関係に飢えているような感じがして、精神的な飢餓感が感じられた。 彼女が語れば語るほど、彼女の存在が遠くへといってしまうようである。 肉体を曝せば曝すほど、肉体の意味が軽くなるように感じるのである。 彼女がオリエンタルだと思わせるのは、シンガポールに一時帰国し、母親にGang-bangを告白するシーンである。 個人が確立し彼女の生き方の結果として、このパフォーマンスがなされたのであれば、母親に理解を求める必要はないだろう。 ウェットなアジア的親子関係が、どっと画面にでてきてひどく疲れた。 映画館で上映されてはいたが、もとはビデオで撮影されたものである。 それを35ミリに焼き直したので、照明も不足だったし、画面もひどく荒れていた。 主題がシャープで、ストーリーに引き込む力があれば、そうした欠点も無視できるが、 映画それ自体に力がないので、技術的な不充分さが目について仕方なかった。 251人とのセックスという超話題な事件を扱っても、それを通じて訴えるべききちんとした主題がないと、おもしろい映画にはならない。 フェミニズムと女性からのセックスということで、わざわざ見に行ったが、内容的には充実していたとはいえなかった。 もちろん映画としての充実度と、グレース・クェックのフェミニズム的な行動とは、まったく話が別である。 彼女のようなフェミニストが出現してこそ、他の女性たちも少しずつ行動領域が広がるのであって、彼女の先人性は高く評価されるべきである。 251人とのセックスは、男たちを単なるペニスへと引き下げ、数としての価値へと無差別化した。 男を究極的に交代可能なものにしたという、彼女の主張は正しいし、充分に理解できる。 男性を数に置き換えることによって、男性性の価値を交換可能つまり無価値にする作戦は、フェミニストとしては妥当だろう。 しかし、同時にそれは反対も成り立ち、女性を数に置き換えることも可能である。 いずれにしても、セックスにそれほどの意味を込めなくなった。 それは確かだろうし、男性支配の根幹である核家族が崩壊しているので、当然の成り行きだろう。 それにしても、この映画をアンドレア・ドォーキンなどは何というだろうか。 フェミニストたちの意見をぜひ聞いてみたいものである。 1999年のアメリカ・カナダ映画 |
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