タクミシネマ          小説家を見つけたら

小説家を見つけたら    ガス・ヴァン・サント監督

 かつてピューリッツア賞を取った小説家ウィリアム・フォレスター(ショーン・コネリー)が、ニューヨークのアパートにひっそりと住んでいた。
その部屋へ、16才の少年ジャマール(ロブ・ブラウン)が、ひょんなことから紛れ込む。
ジャマールはブロンクスに住む黒人青年で、バスケットも上手かったが、ものを書く才能があった。
それがフォレスターと巡りあうことによって、開花する話である。
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劇場パンフレットから

 これだけでは映画にならない。
ジャマールの有名私立高校への転校と、そこでの確執がまず描かれる。
黒人差別もさらりと触れられるが、それはこの映画の主題ではない。
バスケットのほうは順当に認められるが、文才のほうは剽窃ではないか、と担当の教師クロフォード(F・マーリー・エイブラハム)から疑われる。
しかし、フォレスターとの約束によって、彼は身の潔白を証明できないままに、処分されそうになる。
そこへフォレスターが登場して、濡れ衣をはらしてくれる。

 若き天才とすでに名をなした人間との友情は、この監督が好きな主題で、彼の前作「グッド・ウイル・ハンティング」でも同じ主題があつかわれていた。
数学の天才だった前作とことなり、今度は文学の天才である。
この監督には、芸術至上主義的な資質があるのだろう。
それだけではなく、現代社会が年齢を超えた人間としての能力だけを求めているのを、よく知っているのだろう。

加齢が知の質を保証した農耕社会や初期の工業社会とちがって、情報社会では年齢を重ねることは、あまり意味を持たない。
高齢者が有能とは限らない。
むしろ年齢の多寡による秩序は、今や障害にさえなっている。
そうした社会背景を思うがゆえに、この主題をくり返すのだろう。主題は納得である。

 映画のなかで、フォレスターが段落の頭には、andやbutはこないという。
接続詞を段落の最初にもってくると、文章の締まりが悪くなり、品格が落ちるのだそうだ。
これはアメリカ英語での基本だろうが、ジャマールはそれを崩したかった。
いまでは、接続詞を段落の頭にすることも、多少はあるようだ。
特殊な効果をねらって使うのだろう。
それにしても、若き天才となるのは男性ばかりだ。
そして、それを導くのも男性である。
才能をめぐる話は、男性間でしか成り立たないのだろうか。
女性の先達が少ないせいだろうか。

 この映画では剽窃が話題になっている。
わが国では、パクリやアイディアをいただくことが大目に見られているが、剽窃や盗作に対するアメリカの厳しさは、本当にすごいものがある。
神がすべてを創った前近代から、人間が神を殺し神の椅子に座った。
神の代わりにすべてを人間が創るのである。
ここで、創造を司るのは人間である、という強い自意識がうまれた。
創造することこそ尊いものだと思えば、人間が創造したものを大切にせざるを得ない。
それは創造する人間を大切にすることにつながる。
剽窃は絶対に許されない。
もし、剽窃を認めると、神を殺した意味がなくなる。
それは神に代わるべき人間の否定であり、人間がつくる社会の崩壊を意味する。


 わが国では、近代が西洋からやってきた。
西洋のものを翻訳することが進歩であり、近代化だった。
真似することが進歩であり、近代化だった。
そして、西洋のものを真似することは、わが国が強くなることだった。
同時に、真似ることは国内で先頭に立つことだった。
だから盗作や剽窃は大目に見られた。
それにたいして西洋諸国では、わが国や途上国の真似をしても、まったく意味がない。
西洋諸国が先頭なのだから、二番手や三番手を真似しても優位には立てないのである。
必然的に先進国の誰も、途上国を真似しようとは思わない。
そうした事情で、盗作とか剽窃に厳しい社会と、寛容な社会ができあがった。

 最近、アジア諸国がわが国の真似をするといって、わが国でも騒いでいる。
しかし、わが国のコピー商品が流行ると、わが国の利益が侵されるといった次元でしかなく、これは実に醜悪である。
わが国では、コピーは創造か否かの問題ではなく、たんに損得の問題でしかない。
わが国の内部に、創造を評価する風土がないのだから、海外のコピーに対しても強くでることはできないだろう。
たとえコピーの摘発をやっても、国内でのパクリを放置しておけば、まったく無意味である。
アメリカでは、独創的な創造を評価し、剽窃を許さないことは、小さな頃から徹底的に教育している。
人間としてユニークであることが、そのまま高い評価である。
それにたいしてわが国では、ユニークであることを、変わり者としかいわない。
こうした違いが克服されない限り、わが国の情報社会化はあまり期待できない。


 情報社会とは、近代の超克である。
わが国でいわれる近代の超克は、かんたんに前近代へと先祖帰りしてしまう。
温かい家族の見直しだとか、高齢者を敬うとか、それらは普遍的に正しいことのように見えるが、実は前近代の価値観でしかない。
個人が自由になることの意味が理解されていない。
近代を超えるには、時代を進める方向に超えなければ、意味がないし不可能である。
人間が神に代わるのだから、人間は孤独にならざるを得ない。
近代とは厳しい社会なのである。
近代が定着していないところでは、情報社会化は難しいと知るべきである。

 この映画は、きわめてアメリカ的な主題である。
しかし、映像的にはちょっと問題が多い。
露出がアンダーだと思える画面が目立ち、色がきれいにでていなかった。
冒頭の腕や顔のアップは、いかにもコダックの色で良かったが、フォレスターのアパートの内部はセットだと思われるのに、照明が不充分である。
ロケ部分は発色が良かったから、おそらくライティングのまずさだろう。

 ショーン・コネリーはミスキャストである。
彼の持ち味は軽妙さだから、昔タイプの文豪というのには向かない。
ジャマールの育ったブロンクスの仲間たちが登場するが、彼等がかなり知的に描かれており、アメリカ社会の底上げが進んでいるのだろうか、と伺わせた。
これは映画だからのキャスティングの話かもしれない。
しかし、ジャマールを演じたロブ・ブラウンは充分に知的な顔だったし、彼の母親も知的な雰囲気をもっていた。
公民権運動の成果は、黒人の中にも浸透し始めたのだろうか。
いまや黒人はヒスパニックに追い越され、白人を攻撃するだけではすまなくなってきた。
自力での解放を、迫られてきたのかもしれない。

2000年のアメリカ映画 

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