フェデラル・エクスプレスの社員チャック(トム・ハンクス)が、出張にでた。 飛行機で移動の途中、海中に墜落し、たった一人絶海の孤島に流れ着く。 そこで、四年にわたり生活する。 その後、いかだを組んで海に乗りだし、無事生還する。 後日談が少し描かれる。 現代への文明批判であろう。 その気持ちは良く判る。 この監督は、「フォーレスト・ガンプ」でも社会批判をしたので、映像表現派と言うよりいわゆる社会派なのだろう。 それが成功したかというと、首を傾げざるを得ない。 まず状況設定が、簡単に想像がつく。 絶海の孤島へと流されるところまででも、ほぼ予想どおりである。
島の生活たるや、まったく平凡としか言いようがない。 飲み水を確保する、火をおこす、食べ物を捜す。 難破した飛行機からの漂流物が助けになる。 自殺したくなる。 いずれも納得だが、納得としかいいようがなく、驚きがない。 これは状況設定がそうさせたのだろうが、島での生活をもう少しどうにかできなかったのだろうか。 映画には驚きが必要である。 一人になったとき、自分がどう人格をたもっていくか、きわめて難しい問題である。 恋人のケリー(ヘレン・ハント)への思いが、懐中時計をとおして切々と伝わってくるが、彼女はその場にいない。 にもかかわらず、彼はその懐中時計に助けられる。 つまり、人間関係は相互関係でありながら、自分の心中では思いこみに過ぎない。 思いこみがないと、人間関係は成立しないのだ。 一度成立した関係は、会えない状況でも成立し続ける。 むしろ、最後に会ったときの関係がそのまま固定され、自分の状況によってより強固になって、持続される。 そうした意味では、ウィルソンというバレーのボールでも、擬人化できるのである。 ここで、擬人化したウィルソンを登場させたのは、主人公チャックの精神活動がどうしても必要としたのだ。 これはクリーン・ヒットである。 ウィルソンを通して、現代社会を見る構造を徹底しても良かったように思う。 自己と他者、これが近代人の心的構造だとすれば、自己を見つめる自己という構造が確認できる。 絶海の孤島でも現代社会でも、この構造は同じなのだということが、より鮮明にでただろう。 一人しかいない孤島でも、まわりに人がたくさんいる現代社会でも、孤独であることにおいて違いはないのである。 人がたくさんいる現代社会は、ただ便利だというにすぎず、本質的には人間は孤独なのである。 それがこの映画の主題でもあったのだから。 この映画には、神様や自然の偉力が登場しなかった。 孤独ものというと、神を登場させたくなるが、アメリカ人はニーチェの末裔である。 彼は自力で逆境からの脱出をはかる。 しかし、あの脱出行は無謀である。 まずシュロがもたないだろうから、すぐにいかだはバラバラになるだろう。 食糧はどうする、水はどうする。 海上での強い日射しはと考えると、あの島に残るほうが生存の確率は高い。 しかも、通りかかった貨物船に救助されると言うのは、もうほとんどあり得ない確率である。 貨物船の上から、いかだの上の人間を発見するのは、まず不可能である。 映画だから許されるということはある。 しかし、物語を支える部分での、ご都合主義はまずい。 それをやると、映画全体が嘘になってしまい、主題ほかすべて全体の信憑性がなくなってしまう。 この映画もそうした傾向があり、海上へ不時着した飛行機からの脱出にしても、ゴムボートを腕にかかえ続けることはできない。 たちまちもがれてしまうはずである。 また、波にもまれる場面では、ゴムボートから放り出されてしまうはずである。 人間の握力なんて、自然の力の前には、ほんとうに微々たるものだ。 身体を縛りつけなくては、ゴムボートを確保するのは無理である。 恋人のケリーは、チャックが死んだものとして、他の人と結婚してしまう。 子供がいたりして、時間的にはちょっと早すぎる感じもするが、結婚は仕方のないことだ。 生死が判らなければ、年月が心を整理させる。 死んだはずの人は、そのまま表れないことのほうが、はるかに多い。 むしろ、ケリーの前にチャックが表れたことのほうが、大問題である。 チャックの心理は深くても単純だが、ケリーは深くしかも複雑である。 チャックの生を信じていなかったのか、と自己不信にもなるだろうし、後悔もするだろう。 そして、早まった結婚に揺れ動くだろう。 この映画の主人公はチャックだから、チャックサイドからの視点で撮られている。 しかし、ケリーの複雑な心理はもっと描かれるべきで、それによって一人の孤独との対比が鮮明になったはずである。 孤独と葛藤は、どちらが楽だという問題ではないが、ケリーの心は悩みに揺れたのは間違いないだろう。 演出がよかったせいか、卓越した演技のせいか、どちらかはわからないが、台詞のないシーンをだれさずに持たせていた。 無言のシーンを飽きさせずに見せるのは、なかなかの力量だと思う。 それと、トム・ハンクスの痩せ方も瞠目ものである。 痩せている方がはるかに格好いいが、それにしても25キロの減量は凄まじいとしか言いようがない。 カメラが思わしくなく、冒頭でややアンダーの画面が多かったのと、頭が切れていたのはどうしたわけだろう。 作為的に切ったにしては、少しだけだったし、何か不自然な切れ方だった。 露出のほうは監督には判らないとしても、撮影中にカメラを覗かなかったのだろうか。 顔をアップにしたときに頭が切れるのは良いとしても、引いたときに頭を切るのは、何らかの意味があるとき以外はやるべきではない。 また上からのカメラワークが多く、人間を寸づまりに見せているのが気になった。 それに海のシーンは、とくに暴風雨のシーンは、セットであることが見え見えだった。 お金をかけた映画なのだから、もう少し自然に見せて欲しい。 全編をとおしてフェデラル・エクスプレスが登場し、この会社があげて協力したことが判る。 最後には、「これで僕は助かった」といって、チャックがぼろぼろになった荷物を届けるが、あれはフェデラル・エクスプレスの宣伝以外の最たるものだ。 これで何か賞でも取ったら、大変な広告になるだろうが、あの荷物は、一体どうやって孤島から持ちだしたのだろう。 多分、フェデラル・エクスプレスは製作者の一員だったのだろう。 バレーボールのウィルソンも良い宣伝になった。 2000年のアメリカ映画 |
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