タクミシネマ        キャスト アウェイ

キャスト アウエイ       ロバート・ゼメキス監督

 フェデラル・エクスプレスの社員チャック(トム・ハンクス)が、出張にでた。
飛行機で移動の途中、海中に墜落し、たった一人絶海の孤島に流れ着く。
そこで、四年にわたり生活する。
その後、いかだを組んで海に乗りだし、無事生還する。
後日談が少し描かれる。

 現代への文明批判であろう。
その気持ちは良く判る。
この監督は、「フォーレスト・ガンプ」でも社会批判をしたので、映像表現派と言うよりいわゆる社会派なのだろう。
それが成功したかというと、首を傾げざるを得ない。
まず状況設定が、簡単に想像がつく。
絶海の孤島へと流されるところまででも、ほぼ予想どおりである。

キャスト・アウェイ [DVD]
劇場パンフレットから

 島の生活たるや、まったく平凡としか言いようがない。
飲み水を確保する、火をおこす、食べ物を捜す。
難破した飛行機からの漂流物が助けになる。
自殺したくなる。
いずれも納得だが、納得としかいいようがなく、驚きがない。
これは状況設定がそうさせたのだろうが、島での生活をもう少しどうにかできなかったのだろうか。
映画には驚きが必要である。

 バレーボールのウィルソンを登場させたのは、とても肯定的に納得する。
一人になったとき、自分がどう人格をたもっていくか、きわめて難しい問題である。
恋人のケリー(ヘレン・ハント)への思いが、懐中時計をとおして切々と伝わってくるが、彼女はその場にいない。
にもかかわらず、彼はその懐中時計に助けられる。
つまり、人間関係は相互関係でありながら、自分の心中では思いこみに過ぎない。
思いこみがないと、人間関係は成立しないのだ。

 一度成立した関係は、会えない状況でも成立し続ける。
むしろ、最後に会ったときの関係がそのまま固定され、自分の状況によってより強固になって、持続される。
そうした意味では、ウィルソンというバレーのボールでも、擬人化できるのである。
ここで、擬人化したウィルソンを登場させたのは、主人公チャックの精神活動がどうしても必要としたのだ。
これはクリーン・ヒットである。


 ウィルソンを通して、現代社会を見る構造を徹底しても良かったように思う。
自己と他者、これが近代人の心的構造だとすれば、自己を見つめる自己という構造が確認できる。
絶海の孤島でも現代社会でも、この構造は同じなのだということが、より鮮明にでただろう。
一人しかいない孤島でも、まわりに人がたくさんいる現代社会でも、孤独であることにおいて違いはないのである。
人がたくさんいる現代社会は、ただ便利だというにすぎず、本質的には人間は孤独なのである。
それがこの映画の主題でもあったのだから。

 この映画には、神様や自然の偉力が登場しなかった。
孤独ものというと、神を登場させたくなるが、アメリカ人はニーチェの末裔である。
彼は自力で逆境からの脱出をはかる。
しかし、あの脱出行は無謀である。
太平洋の真ん中に、シュロで編んだいかだで乗りだすなんてことは、考えただけでも絶望である。
まずシュロがもたないだろうから、すぐにいかだはバラバラになるだろう。
食糧はどうする、水はどうする。
海上での強い日射しはと考えると、あの島に残るほうが生存の確率は高い。
しかも、通りかかった貨物船に救助されると言うのは、もうほとんどあり得ない確率である。
貨物船の上から、いかだの上の人間を発見するのは、まず不可能である。

 映画だから許されるということはある。
しかし、物語を支える部分での、ご都合主義はまずい。
それをやると、映画全体が嘘になってしまい、主題ほかすべて全体の信憑性がなくなってしまう。
この映画もそうした傾向があり、海上へ不時着した飛行機からの脱出にしても、ゴムボートを腕にかかえ続けることはできない。
たちまちもがれてしまうはずである。
また、波にもまれる場面では、ゴムボートから放り出されてしまうはずである。
人間の握力なんて、自然の力の前には、ほんとうに微々たるものだ。
身体を縛りつけなくては、ゴムボートを確保するのは無理である。

 恋人のケリーは、チャックが死んだものとして、他の人と結婚してしまう。
子供がいたりして、時間的にはちょっと早すぎる感じもするが、結婚は仕方のないことだ。
生死が判らなければ、年月が心を整理させる。
死んだはずの人は、そのまま表れないことのほうが、はるかに多い。
むしろ、ケリーの前にチャックが表れたことのほうが、大問題である。
チャックの心理は深くても単純だが、ケリーは深くしかも複雑である。
チャックの生を信じていなかったのか、と自己不信にもなるだろうし、後悔もするだろう。
そして、早まった結婚に揺れ動くだろう。


 この映画の主人公はチャックだから、チャックサイドからの視点で撮られている。
しかし、ケリーの複雑な心理はもっと描かれるべきで、それによって一人の孤独との対比が鮮明になったはずである。
孤独と葛藤は、どちらが楽だという問題ではないが、ケリーの心は悩みに揺れたのは間違いないだろう。

 孤島でのシーンが続く中盤を、トム・ハンクスは無言で演技していた。
演出がよかったせいか、卓越した演技のせいか、どちらかはわからないが、台詞のないシーンをだれさずに持たせていた。
無言のシーンを飽きさせずに見せるのは、なかなかの力量だと思う。
それと、トム・ハンクスの痩せ方も瞠目ものである。
痩せている方がはるかに格好いいが、それにしても25キロの減量は凄まじいとしか言いようがない。

 カメラが思わしくなく、冒頭でややアンダーの画面が多かったのと、頭が切れていたのはどうしたわけだろう。
作為的に切ったにしては、少しだけだったし、何か不自然な切れ方だった。
露出のほうは監督には判らないとしても、撮影中にカメラを覗かなかったのだろうか。
顔をアップにしたときに頭が切れるのは良いとしても、引いたときに頭を切るのは、何らかの意味があるとき以外はやるべきではない。
また上からのカメラワークが多く、人間を寸づまりに見せているのが気になった。
それに海のシーンは、とくに暴風雨のシーンは、セットであることが見え見えだった。
お金をかけた映画なのだから、もう少し自然に見せて欲しい。

 全編をとおしてフェデラル・エクスプレスが登場し、この会社があげて協力したことが判る。
最後には、「これで僕は助かった」といって、チャックがぼろぼろになった荷物を届けるが、あれはフェデラル・エクスプレスの宣伝以外の最たるものだ。
これで何か賞でも取ったら、大変な広告になるだろうが、あの荷物は、一体どうやって孤島から持ちだしたのだろう。
多分、フェデラル・エクスプレスは製作者の一員だったのだろう。
バレーボールのウィルソンも良い宣伝になった。

2000年のアメリカ映画 

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