タクミシネマ         僕たちのアナ・バナナ

僕たちのアナ・バナナ     エドワード・ノートン監督

 ニューヨークでの話。幼なじみの親友ジェイクとブライアンがいた。
ジェイク(ベン・スティラー)はユダヤ教のラビになり、ブライアン(エドワード・ノートン)はカソリックの司祭になった。
彼等には、幼い頃いっしょに遊んだ女の子アナ(ジェナ・エルフマン)がいた。
彼女は中学にはいるとき、カルフォルニアに引っ越していってしまい、2人はとても残念だった記憶がある。
16年たってアナが、ニューヨークへ来るという。
16年ぶりに会ったアナは、とびっきりのいい女になっていた。
2人は舞い上がった。

 2人ともアナにぞっこんだったが、2人の立場は普通の人とは違う。
ラビはユダヤ教信者と結婚しなければならないし、司祭は女人禁制である。
アナへの恋心を、2人とも言いだせない。
ラビのジェイクは、ユダヤ人の女性と見合いをくり返していたが、どうしても真剣になれなかった。
そこへアナの登場である。
彼はラビの掟を破って、アナとつきあい始める。

僕たちのアナ・バナナ [DVD]
 
劇場パンフレットから

 アナが2人の仲を真剣に考え始めたとき、ジェイクは信仰との挟撃にあって悩む。
そして、信仰を選択する。
振られたアナはブライアンに相談するが、彼は自分へのアプローチと勘違いして、信仰を捨てそうになる。
そして、はじめてジェイクとアナの仲を知らされ、激怒と絶望に陥る。
結局、ジェイクが信仰を捨てる覚悟で、アナに告白し二人は結びついた。
ブライアンとの仲も、何とか回復し映画は終わる。

 ユダヤ教とカソリックというよく似た宗教の話である。
兄弟関係にある宗教だから、描かれる風景もよく似ている。
しかし、ユダヤ教は我々には少しなじみがない。
両方の宗教とも長い歴史をもつがゆえに、現在の社会に適応できなくなっている。
それでいて、現在の社会は精神性を強く求めている。

企画としてはいい着眼点だと思うし、映画の展開も納得できる。
宗教を捨てるのは大変な覚悟がいるが、今や宗義にこだわることが非人間的かもしれない。
ジェイクの行動をこの映画は肯定する。

 映画は主題をそのまま見せるものではない。
観客の感情と理性の両方に訴えて、主題を伝えるものである。
感情にだけ走るとわけが分からなくなるし、理性にだけ訴えてもつまらない映画になったしまう。
この映画の企画は良いと思うが、やや理性が勝ちすぎているように感じる。
ひとつひとつ積み重ねるような映画の作りで、わーっとくる感動につながらない。
1人の宗教人が悩む話なら、主人公に感情移入できるかもしれないが、2人が違う宗教をもっているので、観客は2人から等距離をとってしまう。
2人の主人公への等距離感が、感情移入を妨げる。
そのため、どうしても冷静になってしまう。

 ユダヤ教やカソリックのオチだけではなく、文学などからの引用がたくさんちりばめられており、とてもハイブローな映画であることは判る。
しかし、いまいちのれなかった。
それとも、こうした理性に訴えるタッチの映画が、これからのアメリカでは主流になり、その作風に慣れていないので理解できないのだろうか。
その可能性はあるように思う。
新しいものが表れるとき、こちらにはそれを判断する基準がない。
そのため、どうしても今までの基準で判断しがちである。
芸術でいえば、感情に訴えるものだとか、感性に訴えるといったものがそれである。
芸術を感性で感じるのは、工業社会まではまったく正しかっただろう。

 今後、芸術は感性だけが頼りなのだろうか。
コンピュータ・アートにかぎらず、写真にしても建築にしても、道具や機械が介在するものは、たんに感性とは言っていられない。
原始絵画になればなるほど、ローテクになるのは当然である。
芸術は爆発だといった人がいた。
反対に時代が下るに従って、アートもハイテクの恩恵を受けるようになる。
ローテクの操作は感情的だが、ハイテクのそれは理性的である。
ハイテク絡みのアートは、クールである。
とすれば、映画だって今までと同じ作りと言うことはない。
感情につよく訴え、涙をしぼる映画が良しとされたかもしれないが、映画芸術も理性的なものへと変わっていくのかもしれない。


 最近のアメリカ映画がストレートな感情表現より、理性的な感情表現を取りはじめているようにも思う。
若い監督はそうした時代の空気を、敏感に反映しているのかもしれない。
脚本もエドワード・ノートンの大学時代の友人スチュアート・ブルムバーグだというから、時代の流れの判断はもう少し様子を見ることにする。
エドワード・ノートンの監督第一作目だから、どんなことになるのかまだわからない。
しかし、アナに仕事の10年に疑問を投げさせるのと、最後にはアナにユダヤ教への改宗をにおわせるのは、多元的なものの並立という主題からすれば変である。
振られたアナが、John Grayの「Men are from mars, woman are from venus」を読んでいたが、この本は1992年に発売されたものである。
男女は違うという趣旨のものであり、アナが読むにはちょっと違和感があった。

 ベン・スティラーもエドワード・ノートンも、ともに達者な役者である。
とくにベン・スティラーは背も低く、がに股だけど、大きな役をやっている。
母親を演じたアン・バンクロフトも貫禄のある演技だったし、「ラリーフリント」を撮ったミロッシュ・フォアマンの司祭など驚いた出演者である。
技術的な面では、赤の発色がきわめて良く、いかにもコダックの特徴を良くつかんでいた。
おそらくライティングと露出の取り方が良いのだろう。
最近ではまれにみる発色の良さだった。
古い二つの宗教を表すのには、最適な色使いである。
原題は「Keeping the faith」

1999年のアメリカ映画 

「タクミ シネマ」のトップに戻る


TAKUMI シネマ>のおすすめ映画
2009年−私の中のあなたフロスト/ニクソン
2008年−ダーク ナイトバンテージ・ポイント
2007年−告発のときそれでもボクはやってない
2006年−家族の誕生V フォー・ヴァンデッタ
2005年−シリアナ
2004年−アイ、 ロボットヴェラ・ドレイクミリオンダラー ベイビィ
2003年−オールド・ボーイ16歳の合衆国
2002年−エデンより彼方にシカゴしあわせな孤独ホワイト オランダーフォーン・ブース
      マイノリティ リポート
2001年−ゴースト ワールド少林サッカー
2000年−アメリカン サイコ鬼が来た!ガールファイトクイルズ
1999年−アメリカン ビューティ暗い日曜日ツインフォールズアイダホファイト クラブ
      マトリックスマルコヴィッチの穴
1998年−イフ オンリーイースト・ウエストザ トゥルーマン ショーハピネス
1997年−オープン ユア アイズグッド ウィル ハンティングクワトロ ディアス
      チェイシング エイミーフェイクヘンリー・フールラリー フリント
1996年−この森で、天使はバスを降りたジャックバードケージもののけ姫
1995年以前−ゲット ショーティシャインセヴントントンの夏休みミュート ウィットネス
      リーヴィング ラスヴェガス