タクミシネマ          顔

              阪本順治監督

 よく考えられた伏線、展開である。
脚本に相当な労力がつぎ込まれたのだろう。
日本映画としては、そこそこの仕上がりになっていた。
クリーニング屋を営んでいた父親は、お客の女性と蒸発してしまい、店の後を母親(渡辺美佐子)が営んでいた。

 二人姉妹の長女である吉村正子(藤山直美)は、その母の死をきっかけにして、葬式の晩に妹の由香里(牧瀬里穂)との確執から妹を殺してしまう。
引きこもりという現代的な精神障害を持つ正子は、誰とも人間関係が上手くつくれず、かけはぎの仕事をして母の仕事を手伝っていたのである。

 妹を殺した彼女は、家にはいられない。
香典を鷲掴みにして、行くあてもなく家を出る。
その晩にトラックの荷台で酔っぱらい(中村勘九郎)に強姦され、ラブホテルの従業員として住み込みで働き始める。
自転車の乗り方を覚えたり、平穏な日々が始まるかに見えたが、ホテルの経営者(岸部一徳)が借金苦から自殺。


 警察が調べに来る前に逃亡を図る。
九州の別府へと落ち延び、バー律子(大楠道代)のママに気に入られ、そこの従業員になる。
水商売が性にあったようで、小さいながらも華やかな生活が始まる。
しかし、律子の弟(豊川悦司)が殺され、またしても警察の手が身近に伸び、逃亡生活になる。

顔 [DVD]
前宣伝のビラから

 この映画は、犯罪を犯した人間が逃亡生活に疲れるのではなく、引きこもりだった人間が逃亡生活をおくるうちに、普通の人間に戻るという展開である。
この設定はなかなかに面白く、追われることが人間を追い詰めるのではなく、追われることが人間を解放するという逆説を主題としている。
それは現代社会が、誰とも関係を持たずにも生活ができ、引きこもっても生活可能である状況への批判なのだろう。

 人間として生まれながら、生きることに必死にならなくても、親たち廻りの人間が手をさしのべてしまう現代社会。
かつてなら子供といえども労力だったから、健康な子供が遊んでいるなどもってのほか、子供なりの仕事が与えられた。
しかし、現代の子供は労働力ではない。
成人するまでは養育されるだけで、何の義務もない。
とにかく餌が与えられ、親は一応は躾けようとするが、頑強に拒めば我が侭が通ってしまう。
一度我が侭が通れば、あとは自意識は成長しないし関係性は形成されないまま、肉体の成長があるだけである。
それが昨今のアダルトチャイルドや引きこもり等の風潮を生んでいる。
そうこの監督は言いたいのだろう。

 それが殺人という重大なしくじりをしてしまい、追われる身になると状況は一変する。
本人の意識に関わりなく、殺人犯として外部が強制的に関係性を作ってくる。
もちろんそれは、法を支配原理とする市民社会の掟が発動されたわけだが、社会は殺人をおかした人間を許容することはない。
本人が拒んでも、どこまでも追いかけてくる。


 そのうえ殺人は悪だという観念まで失ったわけではなく、悪社である自分は逃げなければならないという、強迫観念に追い立てられる。
殺人を犯すまでは引きこもりという脱市民的存在だったが、警察の追跡が市民的な関係性を強制し、逆に市民として内側に取り込まれていく。
ここに描かれているのは、犯罪者が市民社会から弾き出されるのではなく、市民社会が犯罪者になった人間を内部化する過程である。

 引きこもりに対して、この監督の視線にちょっと疑問を感じる。
劇場パンフレットの巻頭に阪本監督は、「人はまたやり直せる。逃げることは、何かを追うこと也」と書いている。
しかし、現代社会から逸脱してしまう人間を、市民社会の秩序や暴力が治癒するというのが前提だとすると、人間は救われないではないか。
正子が浮き輪にすがって、海を逃げようとするところで映画は終わるが、あれから先の展開はもう見えている。

 エンディングとしては決して悪くはないし、主題からの展開としては必然的なシーンだが、もう一歩踏み込んだ考察が欲しい。
阪本監督の思考回路だと、状況を変革する力になり得ない。
この次の作品も近代の全体性という限界を、超えることはできないように思える。
近代の終焉が引きこもりを生んだのだから、近代の視点では次の時代を切り開くことはできない。

 関係性拒否症や引きこもりなどが、豊かな社会の病理現象だとしても、それを市民社会の暴力が治癒することはあり得ないだろう。
たとえ、関係を強引に結ばせることに成功したとしても、それが望ましい関係性かと言えば、否と言わざるを得ない。
官憲が強制する関係が、人間を豊かにするとは決して思えず、そこには当人がかけがえのない人間だと思わせる愛が必要ではないか。

 関係性拒否症や引きこもりは、子供の意味がなくなった社会だから生まれるのだ。
引きこもりから引き出すには、当人が必要不可欠な存在だと感じさせること以外にはない。
律子や恋心をいだく池田(佐藤浩市)の存在が、正子の心を開かせたのだと阪本監督が言っているとしても、何か危険な思考回路のような気がするのは取り越し苦労だろうか。

 子供が労働力だったり、老後の保障だった社会では、親にとって子供は無条件的に不可欠の存在だった。
愛情を表現するまでもなく、親は子供に餌を与えることが関係性の強要だった。
しかし、今や子供は必要性といった意味では、何の存在意義もない。
子供は親にとって、ただ精神的な癒しである。
しかも癒しとしてだけでは関係が成り立たず、全人間的な関係性を意識して形成しなければ、子供が育たない時代に立ち立っている。
子供を肉体が育て得た時代から、観念が育てる時代へと、今や転換している。
子育てに新たな価値が必要な時代である。

 訓練された体の動き、声の出し方など、藤山直美は最近では珍しく実力のある役者である。
彼女は少ない台詞のシーンでも、伝えるべきものをきちんと伝え、演ずべき役を演じていた。
充分に及第点だが、舞台俳優に特有のやや硬い仕草や動きが、ちょっと気にかかった。

 アメリカ映画を見慣れた眼には、物語の展開がやや鈍く、もう少し早いカット転換が望まれる。
終盤のキツネ踊りは、雰囲気を盛り上げるには良いのだろうが、ああした旧来のものを直接的にに使うのは安直に過ぎる。
旧来のものの安直な使用は、共同体や前近代性への懐古を感じさせてしまい、歴史的に反対方向を向いているように思う。
それとなぜ、「顔」というタイトルになったのだろうか?

1999年の日本映画。  


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