シェクスピアの原作を女性監督が映画化している。 女性監督の演出だから残酷シーンがないかといえば、それは男女差別意識による勘違いで、この映画は殺人に次ぐ殺人である。 しかも、ローマ時代の話だから、殺人の武器はすべて刃物である。 刃物が肉体に突き刺さり、血が飛び散るという、もの凄いシーンの連続で、三時間に近い長丁場はいささか疲れる。 成人指定になるほど、この映画は残酷シーンの連続である。 女性は優しいなどと誰が決めたのだろうか。
タイタス(アンソニー・ホップキンズ)の孫である男の子が狂言廻しを務める。 彼が現代からローマ時代へと連れ去られるやいなや、タイタスのローマへの凱旋シーンが始まり、兵士の行進に見事な様式美を見せる。 ユニークかつ美しい衣装の兵士と古代・現代の入り交じった軍隊の装備が、メリハリの利いた音楽にのって、コロシアムに入場してくる。 ローマ時代の話に、現代の車やオートバイなどが登場するのも不自然ではなく、機械の硬質性がむしろよく合っている。 監督はこの行進のシーンを撮りたくて、この映画を作ったのかとすら感じる。 このシーンをとるために、全力を傾けたに違いない。 イタリア・ファシストの面影を連想させるデザインだが、この映画の見せ場は、この冒頭のシーンだといっても過言ではない。 まさに圧巻である。 ゴート人の王妃タモラ(ジェシカ・ラング)と、その三人の息子たちである。 タイタスは戦死したローマ人の霊に人命を捧げるべく、タモラの命乞いを無視して人質である長男の命を奪う。 長男が殺害されたことによって、タモラはタイタス一族への復讐を誓う。 同じ頃、ローマ帝国の皇帝選出が行われており、その選出がタイタスに一任される。 タイタスは自分の娘ラヴィニア(ローラ・フレイザー)の許嫁でもある候補者を退けて、反対派のサターナイナス(アラン・カミング)を皇帝に推挙する。 一度制度上の皇帝に就任してしまえば、どんな人物でも皇帝は皇帝である。 制度が権力を支え、支配を貫徹する。 皇帝になったサターナイナスは、タモラを王妃に迎える。 そして、タイタスに推挙されたことを忘れ、なぜかタイタスへ制裁を加えてくる。 長男の復讐にもえるタモラの怨念とかさなって、タイタスへの弾圧は凄惨を極める。 二人の息子が殺され、娘のラヴィニアはタモラの二人息子に強姦されたうえ、舌を切られ両手首を切断される。 そのうえ、タイタスの左手まで切断される。 とうとう我慢の限界を超えたタイタスは、たった一人残った息子をゴートに送って反乱を起こさせる。 自らも皇帝とタモラを殺して自害するが、ゴートで挙兵した息子が次のローマ皇帝におさまって物語は終わる。 タイタスは皇帝の命令とあれば、理不尽と思わずに従う。 彼は軍人として自分がよって立つ論理基盤に、皇帝の命令を重ねてみる。 上位者の命令に無条件に従うことが、軍隊における命令の構造を支えるのだ。 命令を無視したら、どんな軍隊も成立しない。 政治の論理と情念の葛藤はない。 しかし、あまりにも理不尽な話が続くと、さすがにタイタスは切れた。反乱である。 シェクスピアの原作があるので、物語はそれから逸脱することはできない。 おそらくかなり忠実に映画化したと思う。 しかし今日、シェクスピアを映画化することは、詳細に検討されねばならない。 卓越した台詞、透徹した現実認識など、シェクスピアは確かに優れた古典だとは思うが、如何せん農耕社会の人間観察である。 情報社会化する今、女性の台頭は必然であり不可避である。 全体を貫く男女観も、強い男にずる賢い女という対立、それにか弱い処女という構造も時代錯誤である。 子供を生んだタモラは強いが、まだ子供生んだことのないラヴィニアは可憐な処女だというのは、女性の存在が子供生むことによって、男性に拮抗していた時代の話である。 強姦する息子たちを虎に見立てるのは、原作からとは言えすでに陳腐である。 彼はタモラの隠れた愛人でもあり、タモラに自分の子供を産ませる。 そして、タモラの息子たちを唆して、タイタスの娘を強姦させる悪の権化である。 今日から見るとシェークスピアの台詞は、黒人差別を孕んでおり、きわめて危険な感じがする。 黒人を絶対の悪として設定すること自体が大いに問題である。 もちろん、映画のなかではアーロンにも充分に反論させており、アーロンの反論は本来は気持ち良いものなのだろう。 しかし、黒人差別が存在し、黒人への罵倒の台詞が定着しているだけに、怖ろしい設定・会話であり危険な空気を感じたのである。 能や歌舞伎を連想させる様式美は素晴らしいが、映画全体としてみたときには、何を主張したいのかよく判らないのも事実である。 復讐の怨念にもえるタモラとタイタスの確執と見るとしても、そのきっかけは長男の殺害だけである。 人身御供として捕虜を殺害することは、あの当時には当たり前にあったことだろう。 しかも、ローマ兵士への鎮魂という名目があったのだから。 反対の立場に立てば、タモラだって同じことをしただろう。 この映画の優れた様式美にたいして星二つをつけたいが、主題の不鮮明さという理由で、星は一つにしておく。 1999年のアメリカ映画。 | ||||||||||||
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