タクミシネマ           ラビナス

 ラビナス     アントニア・バード監督

 人間の肉を食べる話だが、主題はどうもそれだけではないように感じる。
単に人肉を食べることの正否を問うのなら、臆病者を主人公にした映画にはしないだろう。
また、人肉を食べて生還した史実なら、アンデス山中に墜落した飛行機の乗客の話がある。
この映画の裏には、不思議な人間観察と、現代社会への批判の眼があるように思う。

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前宣伝のビラから

 1847年、メキシコとアメリカの戦争で、一度はアメリカ軍が全滅する。
負け戦のなかにジョン・ボイド大尉(ガイ・ピアース)がいた。
彼は臆病者で戦えず、仲間の死体に紛れて逃げ延びた。
彼は死んだ者として扱われ、死体の山に投げ込まれるが、仲間の死体を食べて生き延び、やがて援軍に解放される。
戦いの生存者として勲章を授かるが、事情を知っている軍上部は、彼をカルフォルニアのシエラネバダ山中のスペンサー砦へと、左遷的な派遣を命じる。
そこはたった6人しかいない、小さな砦だった。
しかもそのうち2人はインディアンで、正規軍のアメリカ兵ではなかった。

 ある晩、一人の男コルホーン(ロバート・カーライル)が砦にやってくる。
彼は、シエラネバダ越えの仲間が、道案内の男によって食べられ、自分はやっとの思いで逃げ出してきた、と語ったのである。
そして、あと一人生存者がいるという。

 砦の隊長ハート大佐(ジェフリー・ジョーンズ)は、生存者救出のために現場へと向かう。
しかし、実はコルホーンが仲間を食べたのであり、今度は食べるための人間を求めて砦に向かい、餌の人間をおびき寄せたのである。
コルホーンの術にはまり、隊長はじめ全員が殺されるなか、ジョン・ボイドは辛うじて砦に戻ってくるが、誰もジョン・ボイドの話を信じない。
暫くすると、隊長の後任として新しい大尉が赴任してくる。
なんとそれはアイブス大佐と名乗るコルホーンだった。

 この映画は、食べられた人の精が食べた人に移り、食べた人は強くなるという、インディアンの言い伝えウィーディンゴを下敷きにしている。
病弱だったコルホーンは、人肉を食べてから精悍になった。
コルホーンに殺された砦の隊長は、コルホーンに人肉を口に入れてもらって生き返っている。
また、この言い伝えは、一度人肉を口にすると、何度も人肉を欲しがり、死ぬまで直らないとも言っている。


 この話が前提になって、砦という小さな共同体のなかで、コルホーンの人肉食支配が始まるのである。
しかし、ジョン・ボイドはどうしても人肉を食べるのに馴染めず、コルホーンと確執を繰り返す。
最後には、人肉食をやめさせようとコルホーンを抱いたまま、自ら大型動物用の罠にはまって二人は死ぬ。
そして、インディアンの女性が、砦から逃げていく後ろ姿で映画は終わる。

 人肉を食べたドナー・パス事件(1846〜7)をもとにしているというが、カリバリズムを描くなら、もっと極限状態を設定する必要がある。
人間が人間を食べるのは、近代社会ではきわめて強いタブーとなっており、通常では起こり得ない。
しかし、極限的な飢餓に遭遇したら、あり得るだろうし、事実アンデスの遭難者たちは人肉食をした。
極限の飢えに苦しんだなかで、彼等は人肉食をしたのだ。

 カソリックの彼等は、人肉食もまた神の命じたことだ、と考えるだろう。
この映画では、飢餓は強調されない。
砦には食糧はある。
にもかかわらずの人肉食である。
むしろ人肉食が何か精的な力を与えるという側面と、人肉食は無限の欲望を生みだすという面が描かれる。
これがこの映画の主題である。

 この映画のカギは、インディアンの男女マーサとジョージの姉弟だろう。
インディアンが象徴するのは、豊かな農業社会であり、神の掟に従った社会である。
それに対して、アメリカ兵たちは欲望の自己展開が始まった近代社会を象徴しており、高度化する情報社会が際限のない欲望社会だと、とらえているのではないか。

 そう見れば、この映画はただちに納得できる。
つまり、カリバリニズムそのものを問うているのではなく、カリバリニズムによって生じたウィーディンゴが問題なのだ。
ウィーディンゴに象徴される、欲望が欲望を生む現代社会を批判しているに違いない。
だから題名も欲望という意味のラビナスがついたのだろう。

 神に生かされ、身の程を知った農耕社会の人たち。
そこでは飢饉がたびたび訪れ、現代以上に過酷だったろうから、人肉食が行われたかも知れない。
この時代の人肉食は、生きるために神が命じたことだから、正否の言いようがない。
生き延びることこそ、種が命じているのだから、人肉食の可否も人間の判断の外なのだ。

 しかし神を殺し、人間がすべての上にたった現代社会では、むしろ人肉食をしなければならないような飢饉はない。
にもかかわらず、この監督は人肉食を扱う。
知恵の実を食べたことにより、人間は欲望を持った。
人間の欲望が渇きを招き、また次の欲望を生む。
人間が次の人間像を生みだす無限の構造に、人は規準をもてない。
神がいた時代なら、人間は神に創られたのだから、神に従えば良かった。

 情報社会化が凄まじい勢いですすんでいる。
情報社会化は人間の所行である。
ここには神はいない。
人間の探求心という欲望が新たなものを生み出し、また次のものを生みだすという際限ない構造に入っている。
情報社会には終わりがない。
時代を進める象徴であるコルホーンにたいして、人肉食に染まりながらも進む時代に付いていけないジョン・ボイド。

 最後にジョン・ボイドがコルホーンを抱いて心中するのは、欲望の時代を止めようとするアントニア・バード監督の精一杯の抗議なのだろうか。
この映画は新世界アメリカへの、ヨーロッパ旧世界からの批判とも読めるが、近代というパンドラの箱を開けたのは、西欧諸国だったはずである。
現代社会への批判は理解するが、これでは現代社会とはアメリカであると言っているに等しい。
時代を止めて、どの方向に進もうというのだろうか。
進むべき社会像を示して欲しかった。

 この映画には、ゲイの雰囲気が漂い、やや退廃的な匂いがする。
コルホーンとジョン・ボイドが抱き合った最後のシーンを、上から俯瞰的にとるところなど、ゲイ・テイストが強烈である。
それにしても一昔前なら、こうした主題は女性監督が撮るとは思えない。
女性の表現力は、男性とまったく変わらなくなった。

 人肉食のシーンは少ないが、血が飛び散るシーンがたくさんある。
女性も男性とまったく同様に、現代社会の最先端を考えている。
それは良く伝わってきた。
しかし、蛇に唆されて、最初に知恵の実を食べたのはイヴである。
それによってアダムも神の国を追放されたのだが、先に知恵を身につけたのは女性だ、と聖書はいうのだが。

 アメリカ映画だが、監督とコルホーンを演じたロバート・カイライルはイギリス人、主人公のジョン・ボイドを演じたガイ・ピアースはイギリス生まれのオーストラリア人である。
しかも、ロケはメキシコ、チェコ共和国とスロバキアで行われた。

1999年のアメリカ映画。


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