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 ことの終わり     ニール・ジョーダン監督

 1939年のロンドン、友人ヘンリー(スティーブン・レイ)の人妻サラ(ジュリアン・ムーア)と恋におちたモーリス(レイフ・ファインズ)という小説家がいた。
第二次大戦の最中、二人の恋は燃え上がり、逢い引きをかさね情事にふけっていた。
ある時、彼のアパートに至近弾が落ち、彼は吹き飛ばされ意識不明になる。
サラは慌てて駆け寄り介抱するが、すでに事切れていることを知る。
そこで彼女は「彼とはもう会わないから、彼をこの世に戻して欲しい」と神に祈る。
神はそれを聞き届け、モーリスを生き返らせてくれる。

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劇場パンフレットから

 会わないと神に誓った手前、サラはその言葉を撤回するわけにはいかず、運命として甘受し彼の前から姿を消す。
突然の心変わりに見えたモーリスは驚き、茫然自失。
そのまま二年の歳月が流れる。
そして雨のなかで、偶然にヘンリーとモーリスが出会うところから映画は始まる。
ヘンリーはいまだにサラが誰かと密会していると感じて、モーリスに相談する。
振られたと思っているモーリスは嫉妬にかられて、独断で私立探偵に調査を依頼する。

 偶然の出会いからモーリスはサラに再び近づき、彼女の消息が分かる。
そして彼女が消えた理由が、私立探偵のもたらした彼女の日記から判る。
二年の不在を解消した二人は、関係を復活させるが、その時はすでにサラの命はあと半年となっていた。
おそらく結核であろう。
ヘンリーはサラの不倫の相手が誰であったか、すべてを知っていた。
しかし、サラを大切に思うヘンリーは、モーリスとサラの間を許し、男性二人が同じ屋根の下に住み、サラの死まで看病するのだった。
ヘンリーのような愛情の持ち方は、おおいにあり得ると思う。
むしろ、セックスを独占的に占有する男女関係を純愛と讃えるのは、きわめて狭い偏った愛情だという感じもするが、それはこの映画の主題ではない。

 サラは神との約束により、彼の前から姿を消したが、やはり彼を忘れられなかった。
抜け殻のようになって過ごした二年間。
彼女はカソリックの神父に相談に行くが、神父は何の役にも立たない。
神は冷徹にサラの命を奪う。
神はモーリスの命は戻したが、サラの命は奪った。
サラと神との約束に振り回されたモーリス。
この映画は、憎しみの日記だと始まっている。
彼を振り回した神はいくら憎んでも、なおそこにいる。
神という存在にたいする憎しみが、この映画の骨になっている。
モーリスが最後に「Dear God, forget about me. look after her and henry. but leave me alone forever」と記して、この映画は終わる。

 恋愛映画に分類されるだろうが、主題はむしろ神だといっていい。
主人公のモーリスは再三にわたって無神論者だといっている。
しかし、その彼が結局神を認め、神にほっといてくれと言ってしまう神の存在。
イギリス人は実にしつこい。
今でも延々と神の存在を問い続けている。
この映画(グレアム・グリーン原作)は、おそらくクリスチャンが作ったのだろうと思う。
もしくは監督も原作者の心境を認めているだろう。
絶対者の存在は人間を超えたものだ。
サラと神の関係、そしてモーリスと神の関係、両者ともによく判る。
同時にここには言葉への信頼が根底にあるのだ。
一度観念が言葉によって確定されると、あれは無しねってわけにはいかない。
だから現実が力を持つのだ。
こうした観念を信じる資質が、近代文明とコンピュータを生みだしたのでもある。

 映画としてもなかなかに素晴らしく、セピアがかった暗い画面に、ねっとりとした心理が良く表現されている。
しかも、同じ場面が何度も繰り返し登場し、それが物語を複雑にし陰影を深めていた。
この映画における繰り返しは決して無駄ではない。
時代考証もきっちりとされ、洋服の仕立てがいい。
狂言廻しとして登場する私立探偵パーキス(イアン・ハート)も良く効いていた。

 原題は「The end of the affair」で、「ことの終わり」と訳されていた。
純愛として描かれたモーリスとサラの恋だが、ここでの恋とはむしろセックスを意味していたのではないか。
アフェアーにはもちろんセックスの意味もあるから、むしろ「情事の終わり」のほうが意味が通る。
情事とすれば、キリスト教における原罪観念は、性の快感を知ってしまった神への後ろめたさから来ているように思うので、この映画の構成がよく判る。
事実二人の逢い引きは、セックスにつぐセックスであり、恋の神髄はセックスにあると言わんばかりである。
この映画によれば、セックスの相性の良さが恋であるようにすら感じる。
しかし、性の快感を堪能することは、神に背くことだろうか。
たぶん、キリスト教ではそうなのだろう。

 官能と理性もしくは観念の対立としてとらえても、この映画はまさしくキリスト教世界そのものである。
キリスト教では官能と観念は二律背反なのだ。
官能を享楽することは、神に唾することなのだろう。
性交が豊穣への祈りである世界とは違う。
そうした意味では、ユダヤ教や宗教革命以前の古いキリスト教では、官能と観念の対立はないと思う。
官能と観念の対立が近代を生んだのだ。
両者の対立が神を人間に自覚させ、神を外在化させたのである。
神の外在化こそ近代の特長であり、神を絶対者としながら自分と等価な存在として意識してしまったことが、神殺しだったのである。

 しかし、官能と観念は二律背反どころか、あまり関係がないというのが現代的な解答のように思う。
セックスと愛情は必ずしも直結していない。
セックスに必要なのは、愛情よりもむしろ体力であり、愛情ぬきのセックスでも充実したものであり得る。
また、いくら愛情があっても、身体的な障害があってはセックスはできない。
つまり、肉体から観念が分離することを認めるのは、精神的な辛さ邪魔してできなかった。
その辛さを癒したのは、愛情至上主義という近代的な家族のイデオロギーだったのである。
恋愛の結果が結婚だとしたのは、近代に特有のものである。
観念が観念だけで自立することが判明した現在には、この映画はちょっと古くなってしまった視点である。

 思想的というか哲学的というか、実に内面的な主題を展開している。
この映画はイギリスでしか作れないだろう。
本音と建て前とか、浮き世の流れ者といった思考回路では、突き詰める発想はなかなか登場しない。
言葉を信じて言葉で自分を突き詰める発想が、宗教革命をもたらし、科学を生み近代を生んだのだ。
言葉が力を持たないわが国では、近代は今だしといった感に襲われる。

1999年のイギリス映画。


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