タクミシネマ        シビル・アクション

シビル アクション 
   スティーブン・ザイリアン監督

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シビル・アクション [DVD]

 この映画は実話に基づいた映画だと、最初に説明の文字がでる。
ジャン(ジョン・トラボルタ)は仲間の弁護士と5人で、事務所を開いている。
そこは傷害事件を専門にする事務所で、禿鷹と呼ばれるくらいにえげつない事件屋事務所だった。
大きな事件を扱っては、大金をせしめていた。
その彼が地元のラジオに出たことから、新しい事件が転がり込む。

 工場廃液が地面に浸透し、それが地下水となって水道に混じり、街の飲料水になる。
水道の水を飲んだ子供が、何人も白血病で死んだ。
これは1986年に実際にあった話である。
その遺族から、原因究明と謝罪を求める事件を依頼される。
しかし、彼等はお金を貰っても死んだ子供はかえらないから、賠償金といった名目のお金はいらないという。
当初、お金にならない事件だから、と渋っていたジャンだが、
工場廃液を出しているのが2つの大企業だと知って、俄然やる気をだす。
巨額の賠償金がとれるからだ。

 この映画では、裁判にまつわる裏話がいろいろとでてくる。
アメリカの民事裁判は、判決を求めて争うのではなく、示談にするほうが多いのだそうである。
しかし、示談にするにしても、訴訟の根拠を示さなければならず、因果関係を立証するために両者は調査・分析し、研究する。
それには巨額のお金がかかる。この映画でも、工場排水を調査するために、何カ所もボーリングしている。
そして、地質の専門家に検査を依頼し、陪審員相手にお金をかけた模型をつくる。
とにかく裁判に勝つには、お金がかかるらしい。
何度も裁判は闘争だ、という台詞がでてくる。

 裁判が長期化してくると、収入はない経費はでていくとなって、事務所の財政は悪化するばかりである。
この映画でも、ジャンの事務所は銀行融資も断られて、経済的に追い詰められ、自宅を担保に入れ所員を解雇していく。
お金がなくなっていく様子が、克明に描かれる。
被告企業のうち、一社は有罪、もう一社は無罪となる。
有罪となった企業から賠償金が入り、なんとか金銭的な形がついて裁判は終わる。
しかし、お金ではなく、謝罪を求めていた原告側は納得しない。
ジャンは仲間の弁護士と別れ、一人で工場廃液の探求を続け、とうとう環境庁を動かし、
両工場を閉鎖に追い込む。
ここでやっと、この映画の主張が終わるのだが、いろいろと考えさせられた。

 法廷は事実を明らかにするのではない、と何度もいわれる。
法が介入した時点から、事実は闇の底に隠され、事実らしきものに基づいた演技が黒白を決するという。
そして、弁護士は裁判に勝つというプライドをもってはいけない、いかに多くの金額を入手できるように計算する。
冷静に計算することこそ必要で、プライドをもって法廷にのぞめば、必ず負けるという。
これには説得力があった。
プライドをもつというのは美しい響きだが、一種の自己満足であり現実が見えなくなることでもある。
機械のように冷静に対処することを最上とし、それにプライドは不要というのはよくわかる。

 原告たちは子供をなくし、悲しみのどん底に落ち込んだ。
それを裁判で回復したい。
当然の気持ちである。
賠償金を貰っても、子供が生き返るわけではないから、お金ではなく謝罪がほしいというのもよく判る。
企業活動のうえで過失を犯したら、賠償責任が生まれるのは当然のことだ。
しかし、責任とはどのようにとるのだろうか。
どんなことをしても、死んだ子供は戻らない。
時間を戻すことはできない。
それでも責任はとらなければならない。
どうすれば責任をとることになるのだろう。
謝ったところで、どうとなるのでもない。
加害者の命を奪ったり、体を拘束したところで、子供の命がもとに戻るものではない。
結局、お金を払うことしか責任をとる道はないのだろう。 

 お金を払うこと以外に責任のとりようがないとなると、
賠償金を放棄された場合には、もうどうする手だてもない。
ただ謝るだけだが、むなしい響きである。
そうしたなかで、子供の命を理由にした責任追及は、絶対の正義をかざしての追求になる。
原告側にはまったく落ち度がない。
近代社会は、個人の命を最上のものにしたから、命以上に価値あるものはない。
だから、命を掲げた要求は絶対的な要求になる。
当然、筆者は原告側にたって見ているが、ある時、絶対の正義を掲げるほうが醜く見えるときがある。
ジャンたちがこの事件のために、自宅から年金まで抵当に入れ、とうとう破産する。
それにたいして原告は、私たちの苦しみとは比較できないという。
それは事実だろう。
子供を失った悲しみは何ものにも代えられないが、残酷な言い方だがそれは時間が癒してもくれる。

 命を至上のものとしたときには、反対に生きていくこともまた至上になっている。
とすれば、破産してまで裁判にかけた弁護士にどう対応すればいいのか。
命を失ったことと、破産したことは、次元が違うとはいえ、
同質の責任が生まれているように感じる。
心の痛みとお金の関係か。
映画だから、原告たちはジャンに感謝しなかったのかもしれないが、
親という別人が子供の命をどう代弁するのか。
死んだ子供が責任追及するのなら理解できるが、それはあり得ないことだ。
子供を失った哀しみには共感しつつも、絶対の正義を掲げた責任追及に、なにか腑に落ちないものを感じた。

 工場排水による死者というと、「イタイイタイ病」とか「水俣病」といった事件をすぐに連想した。
わが国では、どれも立件が難しかった。
無過失責任の追求や工場の閉鎖など、アメリカでは簡単にいったのだろうか。
わが国では、この手の事件の解決には長い年月がかかった。
高度経済成長期にあったわが国では、経済成長のためにはある程度の犠牲者はやむを得ない、という空気があった。
それが行政の鈍い対応をうみ、対処する法律の整備を遅らせた。

 ジャンがすべてをなげうって、この事件に入れ込む理由がいまいち判りにくい。
何を主題にしているのか、やや散漫な展開で、映画としては必ずしもいいできではない。
しかし、「シビル・アクション」というのが、何を意味するのかよくわかる。

1999年のアメリカ映画。


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