タクミシネマ        ボーイズ・ドント・クライ

ボーイズ  ドント  クライ   キンバリー・ピアース監督

 1993年、アメリカはネブラスカ州の田舎町フォールズ・シティでおきた殺人事件をもとにして、この映画は作られている。
女性と生まれたブランドン(ヒラリー・スワンク)は、成長するにつれ自分の性意識が、他の人とは違うことに気づき始める。
身体は完全な女性でありながら、意識は男性なのである。
行動も男性っぽくふるまい、好感を持つ対象も女性となる。
しかも、彼女は自分が男性として、女性を愛していることに気づき始める。
成人するにつれ、その傾向はますます強くなった。

ボーイズ・ドント・クライ [DVD]
 
劇場パンフレットから

 女性でありながら女性を愛する女性や、男性でありながら男性を愛する男性は、今やたくさんいる。
彼(女)等はゲイと呼ばれ、自分の性別に違和感を感じていないし、自分の身体を手術で性転換しようとはしない。
同性を愛するゲイは、今や市民権を得たと言っても良い。

 しかし自分の性別を否定し、反対の性別に自分を移しかえて、異性を愛するのはゲイではない。
ゲイは自分の性別を肯定したうえで、同性間で愛情関係を結ぶが、この映画の主人公であるブランドンは、自分の性別を否定して生きるのである。
彼女はゲイとはまったく異なった心性である。
俗にトランスジェンダーと呼ばれるが、彼(女)等に適切な名前はまだない。

 肉体=外観の有りようと精神の有りようが異なる時、人は外観でその人の有りようを判断する。
性別も同じである。
男性器をもっていれば男性と見なすし、女性器をもっていれば女性と見なす。
ところが、彼(女)等は性器の有りようと、精神の有りようが反対なのである。
つまり肉体的な外見が、精神の有りようを裏切っている。
自分自身の肉体が、自分の性別にかんする意識を裏切っている。
そのため、他の人からは性別を偽った存在と見えるし、その人の存在自体が虚に見える。
彼(女)等の存在自体が、他の人を騙すものと見えるから、その人の存在自体が否定されてしまう。

 この映画の主人公ブランドンは、肉体的には女性でありながら、精神は男性になりたがった人物だった。
そのため、自分の精神に合わせて、男性を装った。
男装だけならとやかく言われることはないが、他者と関係を結ぼうとすると、様々な障害が出てくる。
男性の顔をしてアプローチしてきたので、男性と信じてベットに入ってみれば女体である。
この落差には抵抗があるだろう。
相手の女性は、騙されたと思うかも知れない。
ブランドンがアプローチした女性は戸惑いながらも、互いの好意が障害を乗りこえさせる。
やがて性別の違いは問題とはならなくなる。
二人の間には愛情が生まれ、強い連帯感で結ばれるようになる。

 しかし、社会はそれを許さない。
ゲイに対しては別種の生き物と許容しても、性を偽って接近する人間を許しはしない。
この映画の例とは反対に、男性が女性と偽ることも許されない。
いくら女性の心性を持っていても、女子更衣室には入れない。
偽装をしなければ、異性の更衣室へは入れない。
性別を偽装することが許されるのは、エンターテインメントの世界か水商売の世界だけで、いわばピエロとして格下の存在としてだけ許されてきた。
彼(女)等が、堅気の世界へ入ろうとすると、大きな壁が立ちはだかるのが常だった。
性を偽るつまり偽装することは、社会秩序への根底的な挑戦である。
それは韓国人が日本人を装ったり、日本人が中国人を装ったりするのと同義である。
国籍を偽装したとき、周りの人がどのような対応をするかを思えば、簡単に理解できるだろう。
この映画では、彼女は社会の良識によって、最後に射殺されてしまう。

 性を偽装する彼女は、存在自体が社会への反抗である以上、何の危害を及ぼすわけでもないのに、旧来の社会は彼女の存在を許さない。
ブランドンの恋人ラナ(クロエ・セヴィニー)の母親(ジャネッタ・アーネット)は、ブランドンの来訪を断る。
殺したジョン(ピーター・サースガード)やトム(ブレンダン・セクストンV)の悪事は論外として、母親のような通常の社会人ですら、性別を偽装する人間を許さない。
男性や女性のままで生きるゲイは、自らの性別を偽装していないので許容されるが、彼(女)等は偽装ゆえに存在が嘘だと見られてしまう。
ここが悲劇の根源なのである。

 ゲイは性別と性意識が切り離されており、自分が男性であることや女性であることを肯定できるし、異性指向しない自分の性意識を否定する必要はない。
しかし、ブランドンのようなトランスジェンダーと呼ばれる人たちは、自分の性別を肯定できないのだから、悲劇的な存在である。
性別と性意識が逆転していながら、性別と性意識が密着している彼(女)等は、現実の性役割に自分をあてはめることに必死である。
男性でも怖じ気づくような危険なことでも、それが男性性の証明であれば、果敢に挑戦せざるを得ない。
生物的に男性であれば、男性性から逃げることこそあれ、迎合する必要はない。
生物的な男性は、自分の好みで男性的な行動を選択できるが、彼女は社会の男性性に自分を合わせることによって、男性であることを確認するのだ。
この映画でも、マッチョを演じるジョンから、彼女は離れることができない。

 男性性とは勇気のあることだすれば、弱虫と思われないために必要以上にマッチョを演じる。
男性になりたい女性は、男性のように煙草を吹かし、力仕事を好み、女性を保護したがる。
反対に女性になりたい男性は、男性に甘えいわゆる女らしさを強調する。
生物的な性別は事実であり、きわめて安定しているが、社会的な性別は性意識という観念だから、不安定である。
しかも、男性になりたい女性は、より真実らしい男性性を求めるから、男性性の変革を求めるのではなく、あるべき男性像へ自分を近づけようとする。
あるべき男性像など、確たるものは本当のところ存在せず、男性性や女性性は多くの人がそれだと思っている観念に過ぎない。
だから、彼女の心性は逃げ水を追う仕儀になる。
この構造が彼女の人生を悲劇に結果させざるを得ない。
自己を肯定するゲイが革新的で変革的なのに対して、トランスジェンダーは現状維持的で保守的な資質である。

 情報社会になって、物(=肉体)と観念の距離を測ることが可能になった。
機械言語の登場により、物と観念は密着していないと知られてきた。
だからゲイやトランスジェンダーが、社会の表に登場してきた。
しかし、両者は異質な存在である。
ゲイは工業社会の終盤で初めて登場した新しい生き物だが、ゲイではない同性愛つまり少年愛は、歴史上どこにでもいた。
同様に社会的な性意識に適応できない人間も、わずかながらどこにも存在していた。
肉体の性別と性意識が異なった場合、物と観念が密着していた今までは、肉体に精神を合わせた。
それが今や観念が自立したので、精神に肉体を合わせるようになったのである。

 物(=肉体)と観念が密着していないことが、ほんとうに理解されれば観念が観念だけで自立する。
そうなれば、ゲイはより広範に棲息するようになるだろうが、模倣すべき典型的な性役割が存在しなくなるから、トランスジェンダーはいなくなるだろう。
つまり完全な情報社会に入ってしまえば、肉体的性別と性意識は分離するから、トランスジェンダーは生まれる余地がない。
トランスジェンダーは、工業社会の置き土産とでも言うべきものである。
肉体的な性別と性意識が一致し、性別役割が強固に残っている田舎だった。
だから、彼女は殺されてしまったのであり、情報社会化が進んでいる都会に出てくれば、殺されることはなかったであろう。
若さゆえに生きる術を知らない彼女は、本当にかわいそうだった。

 この映画は、物と観念の乖離という現代的な主題を扱っているが、映画としてみると平凡である。
多用されていた早送りのシーンも消化されておらず、展開や構図は月並みで驚きがない。
映画の基本は主題であるとは思うが、映画が映画である所以は、映像が動くことである。
そこには表現の美意識とでも言うべき、映像としての美しさといったものが不可欠だ。
この映画を撮ったのは若い女性監督らしいが、そうした意味では才能の閃きは感じることができない。
良きカメラマンと組むことが、この監督の今後の課題だろう。

 この映画で見るべきは、主人公ブランドンを演じたヒラリー・スワンクである。
存在自体が悲劇である人間を、きわめて悲劇的に演じていた。
99年のアカデミー賞で、彼女は主演女優賞のオスカーをとったとあるが、まったく当然のことだと肯首できる。
恋人のラナを演じたクロエ・ゼヴィニーも存在感があり、今後が楽しみな女優さんである。
それにしてもサンダンス育ちのマイナーな映画に、オスカーが出るアメリカ映画界の懐の深さには驚嘆するばかりである。

1999年のアメリカ映画


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