マイク・フィギス監督の「リービング・ラスベガス」は、現代の世相を鋭くとらえて良くできた映画だった。 同じ監督が撮ったとあれば、例えそれが彼の子供時代の告白であっても、期待して見に行くであろう。 しかし、優れた映画を撮るのは難しい、と知らされて帰ってきた。
熱帯地方のようなところで、トウモロコシ畑の間を子供が走っている。 飛んだ色調なので回想か、空想の場面であろう。 そして、おそらくその子供が彼自身であろう。 彼は老人と下着姿の少女が、対面している不思議なシーンを覗き見する。 次に、同じ色調で裸の黒人男性(フェミ)と白人女性(ハンヌ)が登場する。 この時は気がつかなかったが、この二人はアダムとイヴなのである。 二人は裸で戯れており、二人とも裸のままおしっこをしあうシーンがあるのに驚く。 これは、天真爛漫さの表現なのであろうが、もう少し工夫があったのではないだろうか。 やがて、蛇に唆されてイヴとアダムは知恵の実を食べ、楽園を追放される。 その話が伏線として続くなかで、現代の話がかぶってくる。 そこで仕事の電話を受け、彼はイタリアへ向かい、ローマで仲間と合流する。 男性三人と女性一人の四人で、チュニジアへと向かう。 何を撮影する仕事だかよく判らないが、彼等はときどきカメラをまわす。 そして、車を走らせていると、砂漠でベルベル人の子供をひき殺してしまう。 集まってきたベルベル人は、復讐に仲間の白人女性を殺してしまう。 この話とアダムとイヴの話が交錯しながら、映画は進むのだが、主題がどうもよく判らないのである。 禁断の実を食べたから人間には知恵が付き、性的な無垢さを失ったと言いたいのかも知れないが、そんなことはとうの昔に言われたことだろう。 だいたい性的な無垢さという概念自体が、怪しげなものである。 最初は羞恥心など無くて、つまり動物には羞恥心がなく、人間が動物から進化したとしたら、どこかで羞恥心を身につけたと言いたいのだろう。 しかし、性にまつわることをタブーとするのは、すべての人類に共通のことなのだろうか。 日本人は性交を秘めたるものとはしたが、むしろ豊穣のあかしとして享楽したのではないか。 この映画が展開する主題は、フロイト以降の西洋的な性観であり、きわめて近代的なものである。 無垢さを失った人間という観念が先行し、それですべてを説明しようとしているが、それは無理である。 砂漠の掟が厳しいものであったとしても、その場で復讐などするわけがない。 その場で復讐殺人などしたら、どんな社会でも秩序が維持できない。 このシーンは、映画製作者がベルベル人に対してもつ特殊な倫理の反映で、砂漠の住人ベルベル人に対する差別意識が撮らせているように感じた。 アメリカ映画だが、必ずエンターテインメント性をもつアメリカ映画の作り方ではない。 マイク・フィギス監督がイギリス人であるからか、むしろイギリス映画と言った方が良い。 「リービング・ラスベガス」でお金が入ったので、自由に作れるようになったのだろう。 監督の自由になった分他人への説得性に欠け、未消化で独りよがりな映画になってしまった。 芸術映画はつまらないという好例である。 プロデューサーのチェックが必要な所以である。 1998年のアメリカ映画。 | |||||||||||
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