シンシナティの町に、体は大きいが少し知恵遅れの少年マックス(エルデン・ヘンソン)がいた。
彼は小学校六年生をすでに二度留年し、今年留年すると特殊学級へ行くことが決まっていた。
彼の父親は、奥さんつまり彼の母親を殺した男で、現在刑務所に服役中だった。
マックスを演じたエルデン・ヘンソンは、既に20歳だそうだが上手い役者である。
そんなところへ、隣の家に同年齢の男の子ケヴィン(キーラン・カルキン)が引っ越してくる。
彼は先天性の身体障害をもちながら、抜群の頭脳をもっていた。
しかし、かつての学校では、体が弱く(骨の成長が止まりながら、内蔵は成長し続ける病気)松葉杖を使っていたので、みんなからいじめられていた。
この学校でも、すぐにいじめられる。
一方は頭が弱く、もう一方は身体が弱いがゆえに、両方とも仲間外れにされて、孤独の学校生活だった。
二人が隣同士の住人として出会ったことから、頭が弱いが体の大きな長所と体は弱いが頭のいい長所が、上手く調和し始める。
最初のうち、ケヴィンの積極性に押されていたマックスだが、ケヴィンの足となっているうちに、やがて人生に積極的に向かい合うようになる。
マックスはケヴィンを肩車して町を歩く。
そんな高いところから風景を見たことがなかったケヴィンは、大感激。
しかし、ケヴィンの病気は容赦なく進行し、とうとう死んでしまう。
それを知ったマックスは、慟哭し茫然自失となる。
この映画は、肉体から頭脳へと転換する現代社会の問題点を、じつに忠実に映像化している。
肉体的力が頑健であれば、多少とろくても生きていけた農耕社会から、頭脳の働きがより複雑に要求される情報社会へと変わってくれば、知恵遅れの子供たちはますます除け者にされる。
しかし心の美しさは、必ずしも頭脳の優秀さだけにはあらず、肉体的障害や知能障害を越えて心の美しさはあるのだと訴える。
体の大きなマックスがケヴィンを肩車した姿は、他の人に比べてやはり異様に見える。
しかも、二人で一人となってバスケットのゲームに臨むところは、一人が単位の現代社会ではなかなか認められないだろう。
しかし、一人という単位が完璧ではないのだ。互いに足りないもの、優れたものがあれば、足して一人でも良いではないか。
たとえそれが異様に見えようとも、当人たちが良ければそれで良いではないか。
弱者が力を合わせれば、とてつもない強者に化ける。
そう言っているようにも見える。
マックスの父親は殺人犯である。
マックスは自分が父親に似ていることに、大変なコンプレックスをもっている。
殺人鬼から生まれたノータリン、まわりもそうはやしたてるし、彼も自分をそう言って責める。
成長するに連れて、あの嫌な父親に似てくる自分をどうすることもできない。
30年の刑に服した父親が仮出所して、マックスを誘い出しに来る。
あんなに嫌っていたのに、父親の前にでると、身体が動かず声も出ない。
父親の言いなりに付いていってしまう。
この心境はよく判る。
小さな頃に一度できた人間関係は、なかなか崩せないのだ。
子供にどんなに力が付いても、親が優位子供が劣位の関係は強固に残る。
出所してきた父親をマックスが嫌うと、父親を警察に売るのかと脅迫する。
ケヴィンの父親は、ケヴィンが障害者だったので逃げてしまって、今は母子家庭だという。
ここでは血縁が人間の質をまったく保証しないこと。
殺人鬼の父を持とうとも、子供は子供であることが、しつこいくらいに強調される。
血縁といった属性で人間を見るのではなく、裸の人間をそのままの形で抱きしめようと、映画は切々と訴える。
人間が裸にされることは、一面恐ろしいことでもある。
しかし、裸の人間をみずに、本人の努力ではどうしようもない属性で判断されたら、たまったものではない。
今ではおばさん夫婦に養育されているマックスは、確かに難しい子供である。
正規分布の80%以内におさまる子供の方が扱いやすい。
そうした80%以内の人間を標準として、いままでの近代は成り立ってきた。
しかしもはや、それでは社会は立ち行かない。
頭脳に特化すればするだけ、肉体も大切になるのだ。
なぜなら、頭脳は肉体の上にあるのだから。肉体が頭脳を支えているのであり、頭脳が肉体を支えているのではない。
80%の人間ではなく、100%の人間、人間の形をしたものすべてを人間と扱う姿勢こそ、これからは不可欠なのである。
正規分布の両側の20%に、80%の人間たちを解くカギがあるかも知れないのだ。
少なくと、上の10%に目を凝らせば、必然的に下の10%を見ないわけにはいかない。
優れていること、それは優れているがゆえに問題児なのだ。
優れているか否かは極めて相対的な問題であり、上位10%をまとめて外したら、下位の10%は変化するのである。
また、下位の10%を乳母捨て山に捨てたとしても、次にはまた下位の10%が生まれるのである。
トカゲの尻尾切りはどこまで行っても止まることはない。
劣位者を切り捨てる発想は、それ自体が無効なのだ。
前半の二人の出逢いがやや不自然で、描写が足りないように感じる。
前半は吸い込まれるように心酔できないが、それでも中盤からは見る者の心にぐいぐいと訴えてくる。
マックスもケヴィンも父親との関係、マックスのおばあさん夫婦との関係、ケヴィンの母親がケヴィンを普通の子供と同じように扱おうとしていること、不治の病気という人間の力では至らない世界があることなどなど、多くの考えさせる主題を盛り込んでいる。
ケヴィンは近々死ぬことを知りながら、マックスと仲良くなり、予定通りに死んでいくケヴィン。
ここでも充分な生を生きようとする人間への暖かい眼差しがある。
もちろん、残されたマックスの落胆は大きい。
しかしケヴィンの死は、人智を越えたことなのだ。
フリークという怪物という言葉が、むしろフリークゆえに強いのだと主張される。
脚本の同時代性、本質指向性が素晴らしい。
小さな映画だが、ジーナ・ローランズ、シャロン・ストーンという有名な女優が出演している。
おそらく彼女たちは、大ヒットしないこの映画に喜んで出演しただろう。
肉体と頭脳の相克は、女性たちの問題とまったく同じなのである。
現代女優たちの生きる姿勢そのもののような映画だった。
判ってない日本の配給会社が付けた邦題は「マイ フレンド メモリー」であるが、原題は「The
Mighty」であることも、映画製作者たちの真意がどこにあるか判る。
1998年のアメリカ映画
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