タクミシネマ        セントラル・ステーション

 セントラル ステーション     ヴァルテル・サレス監督

 リオ・デ・ジャネイロの中央駅から話は始まる。
駅構内で代書屋をやっている女性ドーラ(フェルナンダ・モンテネグロ)の前には、毎日大勢の人が手紙を書いてもらいに来る。
ブラジルにはいまだ文盲の人が多いのである。
ある時、子供連れの女性が二度手紙を書いてもらう。
しかし、彼女はドーラの目の前で、バスにひかれて死んでしまう。
その子供ジョズエ(ヴィニシウス・デ・オリヴェイラ)が孤児で残され、身寄りのない浮浪者となり、駅をねぐらとするようになる。
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劇場パンフレットから

 ジョズエに興味を感じたドーラは、彼を自分の家に連れていき、面倒を見ようとするが、彼はドーラに懐かない。
そこでなんと、ドーラはジェズエを里子斡旋を装った臓器売買の組織に売ってしまう。
しかし、友達のイレーネ(マリリア・ベーラ)に諭されたドーラは、ジェズエを奪還し、彼の父親に引き渡すべくバスに乗る。

 その道中、ジェズエはドーラになかなか心を開かず、決して関係は上手くない。
ドーラも彼女自身、なぜジェズエを父親の元へ、届ける気になったのか定かではない。
彼女はジェズエをバスの運転手にあずけて、自分は途中で降りてしまう。
しかし、なぜかジェズエも一緒にバスを降りている。

 ジェズエに託したバックを、彼がバスの中に置いてきたので、すでに彼等は一文無しになっている。
誰も知った人がいないところでの、一文無しである。
心細いことこの上ない。
このあたりから、二人は何とか心が通い始める。
探し当てた住所には、父親はおらず引っ越した後だった。
また尋ね歩く。

 そんな時、ジェズエが代筆業を思いつき、ドーラは道ばたで開業。
お金が手にはいる。
しかしドーラは、今まで投函を依頼された手紙を投函せず、切手代も頂戴していた。
都会の厳しい生活が、人間への彼女に信頼を失わせていた。
ジェズエとのバス旅行で、彼女は心を入れ替えて、手紙を投函するようになる。
最後に辿り着いた所で、ジェズエの兄弟と出会う。
父親はそこでも子供二人を捨てて、家を出ていた。

 ドーラとジェズエは、その家に一晩泊めてもらうが、そこで父から来た手紙をドーラに読んでもらう。
彼等も文盲だったのである。
そして、ジャズエが腹違いの弟だと打ち明ける。
ドーラはジェズエをその家において、一人でバスに乗って、リオへ帰るところで映画は終わる。

 様々に考えさせる内容をもっており、とても良い映画である。
まず、ブラジルという途上国の映画だから、映画技法的にそれなりかと思っていると、先進国のものとまったく遜色ない。
むしろ、きちっとした構図、リズムのある展開など、先進国的な眼で見ても充分以上に優れている。
おそらくこの監督は、先進国で映画教育を受けていると思う。
しかも、彼の美意識が優れているがゆえに、美しい画面を作っているのだろう。
また主題にしても、極めて分かりやすく、その点でも優れた映画だと言える。

 それにもまして、僕がこの映画から感じたことは、自分自身の観察眼の浅さである。
ブラジルの現実は、旧来の宗教がはびこっており、経済的にも貧富の差が大きい。
東南アジア諸国とよく似ている。
外国で僕も同じようにバスに乗るが、その中でこうした人生の縮図が隠されていることまでは、想像が届かなかった。
鉄道という交通網が未発達な地域では、バスが移動の足であるが、それは人々の喜怒哀楽をも乗せているのである。
現地の人たちの心の襞まで感じることは、単なる旅行者である僕にはできなかった。
今後の旅行に考えるべきことができた。

 この映画から感じたことはたくさんある。
まず、庶民生活の厳しさ。わが国では、庶民こそ心暖かい、気さくな人たちだと描かれることが多い。
しかし、それもある生活レベルが実現している人たちのことであって、ブラジルに限らず途上国では違う。
みんな生活に必死なのである。
駅の売店から商品をくすねる奴を、地回りが追いかけ商品を取り戻し、その場で射殺してしまう。
商品は無事売店に戻る。
地回りというヤクザが、その場の平和を仕切っている。
平和への見返りとして、喜んで所場代を払う人々。
国家権力の支配がきめ細かく届いていないところでは、私設の治安組織が発生するのは自然なことである。
近代が進むと支配が強固になり、ヤクザは不要になる。

 ドーラが一度はジェズエを売ってしまう。
外国の金持ちへ里子に出すというが、連れて行かれたところでは、舌を見せろと言われる。
そこで臓器提供のための売買だと気づかなければいけないが、僕は脳天気楽にも裕福な家庭への里子か、それも良いな等と考えていた。
イレーネの台詞で初めて気がつくとろさである。

 南米ではどこの国でもカソリックが強いが、カソリックは体制を擁護している。
カソリックはもはや庶民の味方ではないし、むしろ、過酷な搾取に従うように人心を懐柔している。
ここでは宗教は完全に麻薬である。
そうした宗教のあり方に、この監督は批判的な目を向ける。
お祭りの場面では、蝋燭をもった大勢の人を登場させ、幻想的とも言える美しい場面を見せるが、その美しさがそのままこの監督の宗教批判でもある。

 ドーラは裕福ではないが都市生活者で、冷蔵庫やおんぼろテレビをもっている。
しかし、子供一人を引き取ることはできない。
彼女が子供を引き取れば、彼女自身の生活をいくらかでも割いて、子供に接しなければならない。
彼女にとって子供は、精神的にはプラスかも知れないが、経済的にはマイナスである。
都市では家庭が生産組織ではないから、一人でも余計な人間を抱えることはできない。
それに対して、ジェズエの兄弟たちの家は、大工であり家具職人である。
田舎の生活は、家庭がそのまま生産組織でもあるから、一人や二人の増加は働き手が増えることになる。
そのため、食いぶちが増えてもやっていけるのである。
ここでは子供の存在は、精神的にはマイナスかも知れないが、経済的にはプラスなのである。

 ジャズエは、オーディションで選ばれたそうで、それまでは駅で靴磨きをやっていたそうである。
彼がとても可愛く、子供を使った映画は子供のかわいさに騙されやすい。
この映画もそうで、もしジャズエがブスイ男の子だったら、話が成り立たなかっただろう。
冷酷な話だが、ブスイ男の子には誰も関心を持たないのである。

 この映画は、たくさんの美点をもっており、良い映画であることは間違いない。
しかし、歴史に残る映画かというと、そうではない。
超一級の映画とは、技法的に優れていることは当然として、人間存在の本質に迫っているか、時代の最先端を切り開いているかのどちらかを主題にしているものである。
そう言った意味では、この映画は近代化が進む時代に翻弄される人間像を描いており、その限界を超えてない。
この限界は、おそらくこの監督が先進国を知っているがゆえで、わが国の夏目漱石のような存在である。

1998年のブラジル映画。


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