タクミシネマ        バッファロー'66

バッファロー’66    ヴィンセント・ギャロ監督

 さえない男ビリー・ブラウン(ヴィンセント・ギャロ)が、刑務所から出てくる。
街へのバスを待っているうちに、トイレに行きたくなる。
それを我慢しながらバスに乗り街に入るが、なかなかトイレが使えない。
ところがそこで突然、通りすがりの女の子レイラ(クリスティーナ・リッチ)を誘拐し、自分の妻だと言って実家に連れていく。
彼は両親に錦を飾りたかったのである。
誘拐されたレイラがなぜ彼に調子を合わせ、やがて彼に愛情表現までするかは問わないことにしよう。

バッファロー'66 [DVD]
前宣伝のビラから

 映画は、ビリーの生い立ちや刑務所へ入った理由などを、時間を追って順に見せてくる。
それにつれて、なぜ彼がこうした行動をとったのかが判り始める。
彼の両親はきちんとしたカップルなのだが、父親(ベン・ギャザラ)は彼を頭から信用せず、小さな時から頭ごなしに彼を叱っていた。
そして、母親(アンジェリカ・ヒューストン)はフットボール狂いで、バッファローズの熱狂的なファンである。
1966年にビリーが生まれ、その出産がちょうどバッファローズの優勝とぶつかり、テレビが見れなかったと、今でも愚痴っている。
要は子供の頃から、彼は愛情を注がれずに来たのだった。

 彼の唯一の友だちは、グーンと渾名される少し知恵遅れの男だけ。
学校でも友達ができず、彼が心を寄せていた女性からも相手にされなかった。
しかし、彼は彼女を心の中で思い続け、誘拐したレイラには当時の彼女の名前を名乗らせる。
ただ一つの特技はボーリングで、行きつけのボーリング場では大切にされてはいたが、それも何となく手加減されているようで、本当の友達とは呼べなかった。

 愛情を注がれずに成人した彼は、愛情に飢え心の底から本当に愛されたいと念じている。
しかし、愛情の交換とはどのようなことなのか、彼にはその表現方法が判らない。
愛されることを望みながら、他人が愛情を表現しても、それが受け入れられない。
愛情とは何かが判らないのだ。
誘拐されたレイラが、慈母のようにビリーを許し愛そうとするが、彼はそれが受け入れられない。
あんなに愛情に飢えていながら、愛情を受け入れられない。
愛情を表現し受け入れることができるのは、小さな時に誰かに愛されたという経験がなければ不可能なのである。
愛情を注がれなかったものは、愛情を受け入れる回路が形成されてない。

 この映画は、男性のきわめて自分勝手な願望からできている。
見知らぬ女性を誘拐して、その女性が誘拐犯に慈母のごとくの愛情を通わせ、しかも誘拐犯の男を思いやるなどと言うことはあり得ない。
誘拐された女性のほうこそ良い迷惑である。
何時までも大人になれない男の戯れの相手をさせられ、彼女の生活も希望もまったく省みられない。
レイラの意志はこの映画では無視されている。
実に身勝手な映画である。
女性には申し訳ないが、それも問わないことにしよう。

 現代社会は各人が個人が自由に生き、男女平等になり、一見すると人間を大切にするようになった。
しかし、男性は男性に生まれるのではなく、男性に育て上げられてきた。
男は常に頑張らなければいけない、競争に勝つんだよと教育されて、初めて一人前の男ができたのだ。
社会や家庭を担う男を作るというのは、とても手間のかかる作業だったのである。
それが今や、男女が平等になり、男を育てるシステムは、見えにくくなった。

 女性は男性の伴侶となることが期待され、男性ほど手をかけられなかったので、そうしたなかでも女性は育ち得る。
しかし、放っておかれたら、男性は自我が確立できない。
社会を支える人間の教育は、手間がかかるものなのだ。
男は一流の生き物であり、女性は劣っていると言ってきた歴史を見れば、実に身勝手な言い分だが、社会は男に手間をかけて育ててきたのだ。
それがなくなった現在、大人になれない男が発生しても、無理はない。
男性である筆者は、この映画を上記のように見るが、女性たちにはトンでもない映画だと感じるだろう。

 この映画が、男性のアダルト・チャイルド化を描いているとしても、ではどうしたらいいかと言う段になると、女性の包容力に期待するでは虫が良すぎるのではないか。
男性である筆者ですらそう思おう。
確かに、慈母としての女性の包容力に期待したいだろうが、すでに愛情を受け入れられない性格は、そう簡単には直らないと思う。
その理由は、何よりも小さな時の愛情不足なのだから。
おそらく、この監督もそれは判っているのだろう。
だから、女性に期待するのだろうが、ボタンの掛け違いを直すには、最初に戻らなければ直らないはずである。

 ちょっと見は、ラブストーリーのように見えるかも知れないが、実はこれは親子ものである。
こんなに大きくなった男の心に、トラウマとなってしまっているもの、それは愛情欠乏症である。
小さな時にいかに愛情を注がれることが大切か、それを切々と訴えているように見える。
今後は、女性も社会を支える生き物になるのだから、女性にも手間をかけた愛情教育が不可欠ではある。
改装したシネクイントは、若いカップルでいっぱいだったが、女性たちはこの映画をどう見たのだろうか。
ヴィンセント・ギャロ自身が監督・主演をしている。 

1998年のアメリカ映画


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