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愛さずにはいられない    アンディ・テナント監督

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愛さずにはいられない [DVD]
 東京の仕事を蹴ってラスベガスに飛んだ男アレックス(ナシュー・ペリー)が、現地の写真家イザベル(サルマ・ハエック)と一夜を共にした。
それだけなら旅先の遊びですんだが、女性が妊娠して三ヶ月後にアレックスの前に登場した。

 彼女はお金が欲しいわけではない。
一人で育てるが、自分の両親に会って欲しいという。
子供の父がアレックスだという必要はない、ただボーイフレンドとして両親に会うことだけだけが頼みだという。
突然の話に戸惑いながらも、彼はそれを承知し、彼女の家族に会う。

 アレックスはアメリカ人でニューヨーカー。
イザベルはラスベガスに住んでいるが、メキシコ人である。
ラテン系の家族は、アメリカの都会人とはまったく違う。
まさに大家族。映画ではそれが大きく強調され、家族は週に一度父の家に集まって、食事をする習慣だという。

 その席に連れていかれたアレックスは、あまりの家族の多さに驚きながらも、親密な家族たちのやりとりに好印象を持つ。
とうとう彼は、イザベルの魅力に悩殺され、舞い上がって結婚。
仕事とイザベルへの愛情の板挟みになり、二人の関係は破綻しそうになるが、この手の映画の常として最後にはハッピーエンドである。

 アンディ・テナント監督のこの映画自体は、特別優れた出来ではない。
同じように、アメリカ人とラテン系の女性の関係を描いた「太陽に抱かれて」のほうが遥かにおもしろい。
しかし、この映画の主題も家族をめぐるものである。
情報社会の家族と農耕社会の家族を対比することによって、家族とは何かを考えようとしている。
やはり、きわめて現代的な映画である。

 情報社会になって家族の繋がりが希薄になり、アメリカ人たちは愛情に飢えている。
自分たちのそうした現状を見るとき、農耕社会の倫理に生きるラテン系の人々は、実に濃密な家族関係を保っており、アメリカ人たちは半ば羨ましい。

 自分たちの作ってしまった情報社会に欠けているものが、ラテン系の家族にはいまだにある。
そう思えて仕方ない。
それがこうした映画の背景だろう。ところで我が国なら、壊れてしまった家族を、どこの国の家族と比較するのだろうか。
それとも、父性の復権を叫ぶのだろうか。

 「太陽に抱かれて」のマリサ・トメイと同様に、この映画でもヒロインは、魅力的で積極的で情熱的な女性である。
それに対して男性もまた「太陽に抱かれて」のA・モリーナ同様に、権威やお金はあるが自信なげで優柔不断である。

 アレックスは積極的なイザベルに引きずられて、大家族の中に引きずり込まれてしまう。
イザベルの父親こそ、彼等の結婚に反対しているが、結婚した二人の家には、イザベルの親戚たちが大挙して押し掛けてくる。
彼等は一度親戚になったら、もう家族も同然である。

 親戚の自動的な拡大というこのあたりは、アメリカ人の嫌いなアラブ人たちと同じであるが、ラテン系のメキシコ人なら許せるのだろうか。
また、カソリックを信じるイザベルは、家の中に十字架を掛け、楽しげに偶像崇拝をする。
アレックスは長老教会派だが、ほとんど無信心である。

 アレックスの会社の本店はニューヨークにあるが、現場は世界中にある。
必然的にある土地に定着できず、次から次へと歩く羽目になる。
それに対してイザベルはラスベガスが本拠地で、そこから動く必要性は全くない。

 アレックスは出世がかかった仕事がくれば、それをなげうってまでイザベルとの蜜月を過ごすことはできない。
現場から現場へと流れる男性と、土地に定着した女性。
映画では男性と女性に比しているが、男女の問題ではなく、広域性を持ってしまった情報社会の職業の問題である。

 イザベルは仕事に気がいってしまうアレックスと離婚を考え、ニューヨークに戻ったアレックスに離婚届を送る。
彼は仕方なしにそれにサインしたが、二人とも愛情がさめたわけではない。
天啓を受けたアレックスはイザベルとよりを戻そうと、メキシコ中部の彼女のおばあさんの家に帰ったイザベルを求めて、遥かメキシコまで飛ぶ。

 しかし彼女はそこにはおらず、出産のために車でラスベガスに向かったという。
あわてて先回りし、思い出の場所であるアリゾナとネバダの境にあるダムの上で待つ。
そこで二人が遭遇。話をしているうちに、イザベルが産気づき出産。
めでたしめでたしとなる。

 全体として血縁家族に対する思い入れが強く、懐古的な感覚の映画と見えるかも知れないが、決してそんなことはない。
最後には提出した離婚届が発効し、彼等はもはや夫婦ではなくなっている。
しかし彼等にはもはや形式的な結婚はどうでもよく、愛情があればいいという結論である。

 家族を見直す映画は様々に続くだろうが、裕福なものを代表するのは男性でしかも白人。
定住を要求したり、家族愛を強調するのは女性である。
この形はしばらく崩れないだろう。
情報社会を代表するのは男性であり、女性は情報社会にどう参入してくるのか、女性としての基準が確立していない。
女性が定着性や子育てにこだわっている限り、女性の地位や経済力は低いままである。
抽象性と土着性との確執はまだまだ続くだろうが、女性が自立を果たすのはどんな形なのだろうか。

 ところでこの映画は、「Fools rush in 」という原題のコメディーなのだが、映画館では誰も笑わない。
日本の配給会社がつけた題名でも判るように、こうした話を笑うような情況には、我が国はまだ来ていないのであろう。
現実には我が国でも、家族がバラバラでありながら、それを直視しようとしない。
現実を見ないままで、我が国はどこへ行くのだろう。

1997年のアメリカ映画


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