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 恋愛小説家   ジェームス・L・ブルックス監督

 ニューヨークに住む高齢の小説家と、中年のウエイトレスが恋する話である。
年齢のいってしまったアダルト・チュウドレンたちの恋が、いかに手間のかかるものかを描いている。
この映画の主題も、中高年の純愛というきわめて現代的な問題意識に支えられており、アメリカの直面する時代の特性が、良く表現されていた。

 60歳に近い小説家メルビン・ユドール(ジャック・ニコルソン)は、恋愛小説ばかり60冊以上も書いてきた。
しかし、毒舌と潔癖性のためにいまだに独身で、実生活ではまったく恋愛には縁のない男だった。
不謹慎な日常の言動から、アパートの住人や近所の人たちからも、彼は敬遠されていた。
そのうえ、通い慣れた近所のレストランでは、座るテーブルも決めて、プラスティックのナイフやフォークまで持参という変な奴だった。
そんな彼には、多くのウエイトレスは寄りつかないが、キャロル(ヘレン・ハント)だけは、何とか普通に接してくれていた。

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劇場パンフレットから

 キャロルには、スペンサーという一人の息子がいるが、彼は病弱なため病院通いが絶えない。
そのため、彼女は職場を自宅の近くに変えようとし、メルビンの通っていたレストランを休んでしまった。
キャロルに休まれたメルビンは困り果て、彼女の家まで押し掛けていくが、プライベートな世界には入らないでくれと拒絶される。
それと同じ頃、隣のアパートの住人でゲイのサイモン(グレッグ・キニア)が、怪我で入院する。
彼の犬を預かったことから、サイモンとキャロルそれにメルビンが絡んで話は展開していく。

 メルビンは、キャロルにウエイトレスを続けて欲しいがために、彼女の子供に優れた医者を紹介し、その費用は彼が持つ。
なぜ医療費をプレゼントされるのか疑問なキャロルは、メルビンに厳しい拒絶の言葉をはく。
しかし、サイモンが両親のところへ小旅行することから、三人は一緒に車に乗ることになる。

 最後は、サイモンに元気づけられたメルビンが、キャロルに恋心をうち明けて、ハッピーエンドになるが、高齢者たちの恋愛は若者たちのようには簡単に行かない。
若者たちは、いまだ自分の世界が虚弱だから、どんな環境にも適応しやすく、新たな異性にも自分をたやすく順応させる。
だから、若者の恋は簡単で、若い男女を放っておくだけで、カップルができあがってしまう。

 年齢を加えることは、自分の世界を作ることだから、高齢になればなるほど、誰でも自分の世界を強固に作り上げる。
自分の趣味、生き方、当人を取り巻く人間関係など、長く生きてくれば、積もったものも厚く堆積してくる。
ところが、相互関係の典型である恋愛は、自分を変える部分が大きいために、高齢者たちには恋愛することが難しい。
そのために、高齢者たちは新しい異性に出会っても、自分のスタイルを変えることができず、なかなか恋愛に飛び込めない。

 生きてきた60年の間に、メルビンは自分の性格を作ってしまった。
それは自分の心を、世間の荒波から守るための毒舌だったり、身を守る潔癖性となって現れていた。
キャロルのほうも病弱な子供を抱え、自分自身の楽しみや人間としての行動よりも、子供の生活が優先して、ゆとりのない心理になっていた。
彼女の存在証明は子供になって、当人という誰でもが寄って立つ心の基盤から、彼女自身が離れてしまっていた。
そのため、幸せそうな人を見ると、嫉妬心に燃え、平静な心理を保てなかった。
そんな自分に彼女は嫌悪感さえ覚えていた。

 この二人を結びつけようと言うのだから、映画とはいえ話の運びも大変だが、展開はそれほど不自然ではない。
メルビンには、食事をさせてくれるウエイトレスが、どうしても必要。
そのために、彼は大金を払うことは痛痒ではない。
通常、見返りを求めてお金は使われるのだから、食事ができるために法外な大金を払うのは常識外れである。
しかし、メルビンには世間は関係なく、自分の常識しかない。
それに従えば、食事をしたいがために、ウエイトレスを確保するのは当然だった。

 メルビンの心の中には、世の常識とは違うものがあり、彼はそれに従って生きてきた。
彼には地位や権威など、何の意味もなく、ただ自分の好みの世界があるだけ。
だから、ゲイであることはただゲイであるにしかすぎず、ゲイであることをあげつらっても、それは事実を言っているだけで、差別していることにはならない。

 ウエイトレスに関しても同様。
お金があるとか、ないとか言ったことは全くどうでも良く、ただ自分の気持ちが安まることが最良である。
キャロルとサイモンを紹介する場面では、「こちらはウエイトレスのキャロル、こちらはゲイのサイモン」と言う。
これがそのまま通れば、なんとすがすがしい関係だろうか。
このままでは相互の理解が、成立しない世界でもあるが。

 この映画の登場人物は全員が、自分が自分であることを肯定されている。
そして、今まで自分がなしてきた人生や、作ってきた性格を無条件で認められている。
ゲイであること、ウエイトレスであること、黒人であること、こうしたマイナス評価されがちなことでも、ただ事実として肯定する。
事実を事実として認めたうえに、この映画は成り立っている。
原題は、「As good as tt gets」であり、日本語訳とはまったく違う。
この原題でこそ、この映画の意味が伝わる。

 キャロルにしても、サイモンにしても自信を失うことはあっても、自分の生活や性格を卑下したりする事はない。
ずっと年齢も上の、しかも有名人であろう小説家に、キャロルもサイモンも臆することなく堂々と対応する。
市井の人間である彼らの、精神生活が脚本の上でもきちんと認識されて、冷静に描かれている。
身分制度が完全に消え去った社会では、その人間の精神的な活動だけが、人間のアイデンティテイを保証する。

 ゲイのサイモンが、メルビンとキャロルに両親との関係を告白し、精神的に立ち直るシーンはやや通俗的ながら、自分の気持ちに忠実である。
そしてキャロルのお母さんが、「普通のボーイフレンドなんていないのよ」と言って、二人の関係を励ますシーンは、思わずほろりとさせられた。
斯くあらねばならないという、世俗的な倫理の強制がなくなった社会では、個人の精神生活から生まれるものだけが、具体的な人間関係を支える。
対世間ではなく、対自分の緊張関係だけが、自分の言動を決める。

 前半から中盤がやや散漫で、3人のデトロイト行きまでをもう少し縮めた方がいい。
しかし、ジェームス・l・ブルックス監督は、情報社会の人間関係を、暖かくしかも正確に描いた。
サイモンのゲイの相手だろう黒人の画商とキャロルのお母さんの発言が、主役たちを良く支えていた。
撮影中は犬猿の仲だったというが、この作品でジャック・ニコルソンとヘレン・ハントは、それぞれ1998年度のオスカー主演男優賞と主演女優賞を受賞した。
ジャック・ニコルソンの演技は、すでに堅く古い。
それでも充分に楽しめた。
1997年アメリカ映画。


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