タクミシネマ              リアル ブロンド

 リアル ブロンド    トム・ディチロ監督

 俳優志望のジョー(マシュー・モディーン)とメイキャッパーのメアリー(キャサリン・キーナー)は、すでに6年越しで同棲している。
ジョーは35歳だが、いまだにエージェントも持てないほど売れていない。
彼はウエイターのバイトをして、やっと生活費を捻出している。
それもメアリーにきちんとした収入があるから可能で、彼は家賃の負担分だけですんでいる。
2人は充分に愛し合っているのだが、収入のない男性は何かとひがみやすくなる。

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 やはり売れない俳優の友人ボブ(マックスウエル・コールフィールド)は、彼より先に昼メロの主人公になってしまった。
昼メロへの出演を皆バカにするけど、週給3、600ドルという高給である。
仕事が何もないよりは、遙かに良い。
ジョーは内心バカにしながらも、彼が羨ましい。
そのボブはブロンド娘に目がなくて、美人のブロンド娘とベッドインを繰り返していた。
ところが、昼メロの相手役とベッドに入ったら、なんと勃起しない。
最初は余裕だった彼も、勃起しないことを相手から馬鹿にされて、男の自信がなくなる。

 この映画は、ニューヨークに住む人間模様を描いているが、この映画にかんする限りストーリーは、あまり重要ではない。
映画としてみれば、平凡で山の少ない展開、当たり前の景色など、それほど高い点は付けられない。
しかし、女性と男性が等価になった社会での戸惑いというこの映画の主題は、とても今日的である。
ヒーローのジョーに関しては、特別なものはない。
売れない俳優が、きっかけをつかんで売れていくだけだが、注目すべきはヒロインのメアリーである。
メアリーの心理には、自立に戸惑う女性の困惑感が良く現れている。

 男女の役割分担がはっきりしていた時代なら、男性が職業労働をし、女性は家事に勤しんだ。
そうした役割分担の先例は当たり前にあって、無意識のうちに誰でもそれを受け入れていた。
しかし、今やそうした役割分担は崩れ、男性が売れないつまり経済的な力がないことだってある。
その時は女性が生活を支えなければならないが、女性が生活を支える先例はまだそう多くはない。

 女性が男性を養わなければならなくなったときには、女性は相手の男性にはもちろん相談できない。
被扶養者を相手に相談したところで、立場の違う扶養者の困惑は理解してもらえないのだ。
それは男女を問わない。
困惑した女性は、他の誰にも頼れなくなり、とても心許ない。
その時はどうしても、同棲している男性に当たりがちになる。
当たられた男性も、男性役割はまだ刷り込まれているから、経済的に自立しなければならないと思っている。
それを指摘されるから、逃げ場がなくなり逆上しやすくなる。

 工業社会での男性の役割、それは経済的な働きと性的な勃起だった。
それが女性の台頭によって、必ずしも不可欠ではなくなりつつある。
しかし、社会や男性たちは経済的な働きと勃起が、自己のアイデンティティを支えると考えているから、それが失われたときは自己の崩壊につながりかねない。
もちろん女性だって、社会的な規制から自由にはなれない。
男性に稼ぎがあることは当たり前だし、自分に対して勃起することは当たり前だと思っている。
それはメアリーの性的に屈折した心理と同じである。

 その人を見つめる目が、その人に性的な魅力を認めなければ、その人の中にそうした自覚が生まれるわけはない。
美人は美人と言われ続けて、美人と思うようになるのである。
美人と言われてこなかった人間が、突然美人と言われてもそれは冷やかしとかからかいとしか受け取れず、むしろ否定的な対応にならざるを得ない。
どんな人間でも、性的な存在であり、その魅力は誰にもあるにもかかわらず、言われ続けないと自覚できない。

 メアリーは性的に積極的ではなく、それが自分の行動の引っかかりになっている。
カウンセリングにいっても、自分の性的な美点を誉められると、馬鹿にされたと思ってしまう。
美人でスタイルの良い女性なら、男から口笛を吹かれたり、お尻の形を誉められたりしても、当然と受け流すことができる。
むしろ、もっと言って欲しいとすら思う。
しかし、メアリーはそれほど性的なアッピールがある方ではない。
美人でもないし、スタイルが良いわけでもない。
普通の女性である。
その彼女が、道行く男からお尻の形がいいとか、胸が格好いいと言われると、性的なからかいにあっていると感じてしまう。

 メアリーは自分に性的な魅力が少ないと思ってしまっている。
だから、誉められても素直に受け入れられない。
むしろ冷やかしと受け止めてしまう。
確かに今までなら、彼女のタイプは美人ではない。
しかし、美人が美人としてもてはやされるのは、男性が養う対象として囲い込めるモノとして、女性をみる視点があるからだ。
女性を経済力を持った生活者としてみれば、美人であることはあまり得点が高くはない。
美人のほうが、稼ぎが良いなんてことはないのだ。
モデルなど見られる対象としての職業をのぞき、通常の社会では美人はちやほやされるだけで、美人であるだけで高給取りとはなり得ない。
映画俳優だって最近では、美人よりも頭脳の優秀さが求められている。
男女が等価な社会で要求されるのは、男女ともに肉体的な美醜よりも、まず労働力つまり経済力があるかどうかである。

 男女差別が少なかった農耕社会では、肉体労働が優位していたから、まず肉体的に健康であるかどうかが問われた。
美人よりも、頑健な肉体をもった女性が好まれたのである。
美人であることはせいぜいが、お殿様という不労者の側室になることぐらいしか売りはなかった。
いまや男女が等価になりつつあり、しかも頭脳労働が優位になりつつある。
そうした社会では、美人よりも頭脳の優秀さが大切にされる。
にもかかわらず男性はもちろん、いまだに工業社会の呪縛から自由になれない女性たちは、どうしても美人とかスタイルが良いと言った尺度で自分を測りがちである。
肉体労働から頭脳労働への転換期の今、男女の関係もちょうど過渡期にある。

 キャスリン・ターナーとスティーブ・ブシュミがでており、そこそこに力を入れた映画なのかも知れないが、映画としてみると平凡である。
しかし、主題に敬意を表して、星一つを付ける。
この映画は、男女の役割が等価になりつつあるアメリカでしか、作ることはできなかっただろう。
わが国では、頭脳労働への転換がまだそれ程進んでないから、男女の役割分担の意識が強固に残っている。
だからこの映画で描かれた男女の悩みは判らない。
必然的にこの映画は、日本では理解されず、人の話題になることもない。
もちろん、自然な自分で良いのだと言うこの映画のメッセージは、残念ながらわが国ではまったく伝わることはない。 

1997年のアメリカ映画。


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