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 ラヂオの時間    三谷幸喜監督

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ラヂオの時間 [DVD]
 三谷幸喜が脚本・監督したコメディである。マスコミの内幕が良く見えて、なかなかに面白い。
監督は意識しているかどうか判らないが、この風刺劇はマスコミだけではなく、我が国の全般的な社会風潮にたいする風刺となっている。
ラジオ放送のスタジオという小さな舞台をとおして、いまの社会が良く透けて見える。

 ラジオドラマの脚本公募で、当選した主婦みやこ(鈴木京香)の台本をもとに、生放送で劇を始めようとする。
リハーサルを終わったところ、ヒロインをつとめる有名歌手千本木のっこ(戸田恵子)が、自分の配役の名前を変えてくれとごねる。
彼女は有名歌手だから、局側が弱く、それをのんでしまう。
脚本家は初めての素人で、それを止められない。
すると次から次へと、全員が自分の立場を越えて、勝手なことを言い出す。
熱海が舞台だったものがシカゴになり、ヒロインはりつ子からメアリー・ジェーンと言った具合に、登場人物はすべて外国人に変わる。

 初めはきちんとした脚本だったが、各人の無責任な発言に引きずられて、まったく似て非なるものになる。
そのやりとりがおかしいのだが、むしろそのおかしさは見ていられないほど醜いやりとりであり、それが延々と続く。
本来仕切らなければならないプロデューサー(西村雅彦)が、有名と言うだけの歌手のわがままを押さえられない。
上司も無責任。他の人たちも自分のことしか考えず、全体はめちゃくちゃになる。

 生放送だと言うことで、放送に穴を開けることは絶対にできない前提で、てんやわんやの騒動が続くのだが、いろいろと考えさせられた。
現在のマスコミに限らず、単なる思いつきやその場しのぎの発言がまかり通り、全体を構成させる人たちの発言が無視されている。
発言した人たちはまったく責任をとらず、誰も全体をコントロールする人はいない。
それでも、何とかまとまってしまう。

 この映画でも、当初の脚本とはまったく関係ない展開を見せたラジオドラマが、最後には初めの脚本の結末に落ち着く。
しかも最後には、聴取者(渡辺健)が感動して泣く場面まである。
監督はこうして作られる状況を、否定も肯定もしていない。
ただ現実を投げ出しているだけだが、こうした作り方で良いものができるわけがない。
ドラマのなかでも制作者達にそう言わせている。
しかし、いつか良いものができるだろうと、妥協しながら作っているのだと自分たちをなぐさめる。
もしこれが監督の本心でもあったなら、まったく何をかいわんやである。

 現実を突きつけられて、ほろ苦い味をかみしめながら、笑うコメディーである。
誰でもが横並びになって、他人の領分に一人前に口を出す。
しかもそれを簡単に良いと言ってしまう。
あとはもう継ぎ接ぎの展開にならざるを得ない。
誤りを認め、原点に戻ることはない。
誰かが頑張って、この映画ではディレクター(唐沢寿明)だが、話をもとへ戻しはするが、できあがったものは本来とはまったく違う。
それでも脚本家の名前がでて、聴取者は脚本家の作品だと思う。
脚本家は、結果責任を要求される。テレビやラジオでの作られ方の多くはこうだろうから、これでは長期低落傾向が続くはずである。 

 我が国の他の分野たとえば政治にしても、これとまったく同じ現象が起きている。
政治家個人をとらえて見れば、誰でも行政改革に賛成する。
しかし、ことが動き出すと、様々な横槍が入り、予定とは違う方向に走り始める。
そうなると誰も止める人はいない。
最後には辻褄を会わせるが、予定とは違ったものができあがっている。
そして、責任者が責任外の責任をとらされる。
この映画と同じことになる。

 やや無駄なシーンがあったり、カットが長かったりするが、社会風刺として良くできた映画である。
出演者達も、スタジオ内という自分たちの毎日だから地で演じれば良い。
細川俊之、井上順、布施明、藤村俊二、近藤芳正など、それなりに全員が上手く演じていた。
この程度の映画が量産されれば、日本映画も捨てたものではないと思うが、やはりB級映画であることは否めない。
というのは、映画の主題が状況描写に過ぎず、人間の本質に迫ろうとするものではないから、世界性を持つことはできない。
良くできたこの映画そのものが、志の低い日本的な現状を映し出している。
 

 素人の脚本と馬鹿にしているが、むしろプロと言われる人たちのやり方が、行き詰まってきたから低落傾向になった。
プロ達がお気楽に仕事をしてきた結果、自分の持ち分さえ充分に果たせず、素人に脚本を依頼する状況が問題である。
布施明、井上順など、部分的には達者ではあっても、彼等のようなタイプが頭を張るようではいけないのだ。

 工業社会的なヒエラルキーの崩壊が、誰でも口を出し、誰も責任をとらない現象を生み出したのではあるが、これが情報社会化だと考えることには疑問が残る。
無計画な映画作り方が成功するためには、関係者全員が全体を見、しかも、各自全員が全体を領有できる優れた人たちであるという、前提が必要である。
我が国が、全体計画なしでやってくることができたのは、過去の遺産のおかげだったと思う。
この映画でも、古いタイプの人間=藤村俊二が再三の危機を救っている。

 確かに新たな秩序の建築には、一つの秩序の崩壊が必然ではある。
しかし、特定分野の専門家だけになったとき、互いに素人の分野に口出しをするのは、どんな結果を生み出すだろうか。
しかも、その時には藤村俊二タイプはもういないのである。
全員が平等な立場でブレイン・ストーミングをすべき場所と、走る場所つまり製作現場は違うだろうとは思うが。
面白くも、苦い映画だった。
1997年日本映画。


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