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☆ フェイス オフ     ジョン・ウー監督  

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 凝ったストーリー展開を持ったアクション映画で、複雑な要素の絡みに感嘆しながら見終わった。
アクション映画というのは、ただ派手にドンパチやる物が多いが、香港映画出身のジョン・ウー監督は、マイケル・コラーリが書いた当初の脚本に、相当手を入れたようだ。
彼の視点は真面目であり、アジア的=農耕社会的な色彩が強いのは当然である。

 6年前に、FBIのテロ担当のショーン・アーチャー警部(ジョン・トラボルタ)は、暗殺者によって狙撃される。
この狙撃はショーンを狙ったものだったが、ほんの少し弾が逸れて彼は生き残り、抱いていた五歳の息子マイケルが死んだ。
以来彼は、犯人のキャスター・トロイ(ニコラス・ケージ)を逮捕するために、生活のすべてを捧げる。

劇場パンフレットから

 映画は飛んで6年後、キャスターがロスアンジェルスを吹っ飛ばす爆薬を仕掛け終え、仲間の弟ポラックスと一緒に、飛行場から高飛びしようとしている情報が入る。
すでに飛行機に乗っていたキャスターを、飛行機ごと格納庫に突っ込ませて、かろうじて逮捕する。
これで一件落着かと思いきや、爆薬を仕掛けた場所を教えるから逃がしてくれと、キャスターから言われる。
それを無視して逮捕するが、爆薬の仕掛けた場所が判らない。

 強力な爆弾だと知ったショーンたちは、キャスターの仲間を脅して、セットされた爆発は6日後の18日だと知るが、爆薬が仕掛けられた場所が判らずショーンたちは困惑する。
そこで、刑務所に収監されている弟のポラックスに接近し、仕掛けた場所を聞き出そうとする。
そのため極秘作戦ながら、ショーンは昏睡状態のキャスターの顔と、自分の顔を手術で交換し、接近をはかる。

 手術は上手くいって、ショーンは極秘のうちに刑務所に収監される。
しかし、昏睡状態だったキャスターが目覚め、医者を脅してショーンの顔を手に入れてしまう。
ショーンになりすましたキャスターは、FBIの捜査官として刑務所にショーンを見舞いに行く。
これでショーンは刑務所から出ることはおろか、キャスターの顔を持った男がショーンであることも、闇に葬られそうになる。

 ここからは映画の話だが、ショーンは脱獄し彼個人の力で、キャスターを探し出し復讐する。
しかしこの間、ショーンになりすましたキャスターは、FBIの捜査官として手柄をあげ続ける。
そして、弟のポラックスを司法取引で出獄させる。

 仕掛けた爆薬の一件でも、キャスターは弟にわざと場所を教えさせ、自分で信管の暗号を解除して爆発させず、自分の手柄とする。
ショーンになりすましたキャスターが、FBI捜査官としてテロ犯罪の摘発を行うが、それはライバルの犯罪者たちを摘発していくことである。
ライバルたちの内部事情を良く知っているキャスターとすれば、捜査は簡単である。
ショーンになりすましたキャスターは、次々と犯罪組織を摘発し、FBI捜査官として出世し、次期長官とまで目されるようになる。

 ショーンの顔を手に入れたキャスターは、ショーンになりすまして家庭に帰る。
ショーンと信じている奥さんのイヴ(ジョアン・アレン)は、キャスターとベットに入るし、むしろ優しくなった夫に大満足。
反抗ばかりしていた娘も、不審に思いながらも、話せるようになった父親を歓迎。
二人とも、父親が変わったと感じてはいるが、むしろ歓迎するほうへの変化だから、日常は平穏に過ぎていく。
脱獄してきたショーンが、イヴに電話しても、冷たく切られてしまう。

 反対にショーンはキャスターになりすまして、かつての悪の仲間に接近し匿われるが、ここにも正義派の家族と同じ人間関係がある。
悪人であっても、当人の居場所はちゃんとある。
キャスターの愛人サシャ(ジーナ・ガーション)は、キャスターに内緒で、キャスターの子供アダムを育てていることを知る。
それが五歳で、ショーンの死んだ子供マイケルとそっくり。
ショーンは、悪の中に生活するこの親子に気持ちが動かされていく。

 最後はキャスターは殺され、ショーンがキャスターの顔を移植していると判り、再手術でショーンの顔が戻って終わる。
ハリウッド映画の常で、最後はハッピーエンドになるのだが、人間の顔の入れ替えが引き起こす余波を、アクションを交えながら克明に描いていく。
顔を入れ替えただけで、正義を代表するショーンと悪を代表するキャスターの戦いの中から、人間の感情や正義と悪、家庭、常識といったものをあぶり出してくる。

 悪の顔を持った正義と、正義の顔を持った悪という対比が、正義と悪の構造を鮮明に浮かび上がらせた。
顔と声が変わって、立場が代わっただけで、周りの対応はもちろん、当人の人格まで変わる。
それが正義と悪を混ぜながら、微妙にうつろう人格の変化を描いていく。
アクション映画という限界がありながら、このあたりのジョン・ウー監督の力量は、なかなかのものである。

 犯罪の撲滅は、それ自体では正義だが、FBIという正義の機関を使って、悪人がライバル組織を摘発する。
この構造は、アメリカの結果主義に対する強烈な反証である。
<白い猫でも黒い猫でも、ネズミを捕る猫が良い猫である>という、結果とその手続きを重視する発想は、動機の詮索まで立ち入らない。
だから、このキャスターの犯罪捜査を肯定せざる得ない。
結果から正義と悪を峻別するのは、本当に困難なことだと判る。
正義と悪という対立思考にたいする、ジョン・ウー監督のアジア的な批判であろう。
これはまさにそのとおりである。

 家族関係つまり子供や奥さんへの感情を極端に拡大し、観念的な正義よりも実体的な人間関係をだけを重視するのは疑問である。
とりわけ、子供という血縁に執着させ、奥さんとの日常を犠牲にしてまで、ショーンは仕事にのめり込む。
正義を支えるものは、子供であるといっているようだ。
この思想からは、法の支配という概念は生まれないし、復讐が復讐を呼んでしまう。
具体的な人間を救うための法であっても、抽象度を上げたところで現実と突き合わせなければ、具体が支配する農耕社会へと逆戻りである。

 観念が肥大し、あまりにも抽象度を上げすぎると、本来人間のための観念だったものが、観念だけへと自己目的化する。
情報社会では観念が世界制覇するから、この批判は的確であるが、めざすべき方向は観念対具体ではない。
ファッシズムに流れる危険や、宗教に走る危険はあるが、観念の克服はより優れた観念を創ることだろう。
ジョン・ウー監督の、アメリカ批判は良く理解できるが、歴史の進歩からは反対方向を見ている。
観念の支配に対して、観念の自己倒置を認めず、具体を対置する意見があっても良い。
問題の解決方法は、様々提示されて良いから、前記の限界を考慮に入れても、ジョン・ウー監督はまごうことなく現代の映画監督である。
しかも、アジア出身だということも含めて、筆者とは意見を異にするが、現代的な問題に真摯に向かい合っている。

 最後に孤児になったキャスターの息子を、ショーンが家族の一員として引き取る場面は、救いを感じて心が温まる。
家族が血縁から解放されることは、決して悪いことではないと、ジョン・ウー監督も考えているのだろうか。
またショーンは、奥さんのイヴがキャスターとベットをともにしたことを聞き、断腸の思いでありながら、自分こそ悪かったと謝る。
これも結果より動機を重んじる、ジョン・ウー的な考えからか。
しかし、全体に男性中心的な仕立てである。

 この映画は、アクション映画として作るより、もっとシリアスな心理劇としたほうが良かった。
「ジキル博士とハイド氏」のように、正義と悪の錯綜とか交換という映画は、以前にもあった。
この映画の特徴は、顔だけを入れ替えることによって、悪い正義と正しい悪が生まれ、正義と悪の立場が変わることによって、人間関係が変わってしまうことである。
しかも、それが欧米法的な発想にのっているとしたら、それを批判しその限界をも射程に入れている。
マイケル・ダグラスとスティーブン・ルーサーが製作総指揮。

1997年のアメリカ映画


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