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 クルーシブル   ニコラス・ハイトナー監督

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クルーシブル [DVD]
 この映画の舞台になっているのは、17世紀頃のアメリカでの魔女狩りの話である。
アーサー・ミラーは、第二次世界大戦後アメリカを吹き荒れたマッカーシー旋風=赤狩りへの批判を込めて、魔女狩りになぞらえてこの原作を書いた。
しかし共産主義国なき今、その原作を映画化するのは、赤狩りを描いているのではなく、現在の社会状況に対する見方にもとづいているはずである。

 良き村人であるジョン(ダニエル・デイ=ルイス)は、奥さんと二人の子供そしてウィノナ・ライダー扮する問題女中アビゲイルを抱える、勤勉で平凡な農夫だった。
奥さんは働き者ではあったが、不美人で冷たかった。
女中のアビゲイルは美人で挑発的だったので、ジョンはつい関係してしまった。
キリスト教が厳然として支配していた当時、姦淫は十戒に記された大罪である。
二人の関係が奥さんにも知られ、ジョンは関係を断ちアビゲイルを解雇した。

 アビゲイルはジョンのところを離れたが、同じ村内に住んでおり、未だにジョンが忘れられない。
彼の愛は、奥さんではなく自分にあると信じて疑わず、時折ジョンに言い寄っていた。
ジョンは内心では今でも大いに気があったが、彼はアビゲイルを相手にしないように努めていた。

 ある晩、村の女の子供たちだけで森に集まって、占いのような呪い遊びに興じていた。
ところがそれを、村の牧師に見られてしまった。
慌てて逃げ帰ったが、それから二人の女の子が眠り込んだまま、起きなくなってしまった。

 医者が手当してもまったく効き目なく、子供たちの深夜の遊びを知らない村人は、悪魔の仕業だと噂し始めた。
その噂をきっかけに、悪戯を思いついた子供たちは、アビゲイルを先頭に悪魔付きを遊び始めた。
当初は遊びだったが、やがて村全体を巻き込むほど話が大きくなってしまった。

 自然界に神が住んでいた時代には、神は天国、悪魔は地獄という棲み分けができていた。
人間は悪いことをすると、地獄に落ちるから、悪いことをしないように善なる神から守ってもらっていた。
宗教革命が起き、カソリックからプロテスタントが別れた当時、神は自然に存在するものから、人間の精神のなかに存在する絶対者に転換しつつあった。

 自然にあった神は、寛容で人間の存在をすべて許したが、絶対となった神は冷酷だった。
絶対となった神は、絶対の正義を実現すると同時に、その裏側に絶対の悪を発生させた。
絶対の悪とは悪魔なのだが、神が人間の外にいるあいだは悪魔も人間の外にいた。
そして、悪魔は人間をたぶらかす悪者だった。

 自然から人間の心のなかに移住した神は、人間の心のなかに自分の居所を確保した。
その時、神は悪魔も人間の心のなかへつれてきた。
神の前に誰でもが同じように小人だった人間は、ふつうは正義派に分類された。

 しかし善悪の基準が、外から人間の心のなかに移住したことの意味は大きかった。
それまでは、人間は神でもなく悪魔でもなかったが、聖なる人間が存在するように、悪なる人間も存在するようになった。
一つの心のなかに神が住めば、悪魔の住むところはない。
人間それ自体が、正義と悪に峻別される時が来た。

 人間世界には幸福なことばかりではない。
人智を越えた不幸な出来事が続くと、人はそれを悪魔の仕業だと考えはじめた。
以前なら、悪魔は人間の外に住んでおり、悪魔退治は神の手を借りて、人間が自然に対して行えば良かった。
しかし、神が人間のなかに住んだように、悪魔も人間のなかに住むようになったから、悪魔と人間の体が一体となってしまった。
神による人体の支配の開始と同時に、悪魔による人体の支配が始まったので、悪魔退治は人間退治になった。

 近代に足を踏み入れつつあった当時、神を絶対者にしたのは、時代を支配していた強い生き物=男性だった。
男性は自分を絶対正義のがわへ置いたとすれば、誰かを絶対悪へ置かざるを得ない。
強い生き物は悪魔の誘惑に負けない。
しかし、弱い生き物は悪魔の誘惑に負けやすい。魔男よりも、まず魔女が誕生するのは必然だった。
魔女は根絶やしにせねばならない。まじめで敬虔な信者であればあるほど、魔女狩りには精力を費やした。

 良識ある人間が魔女とされ、処刑される人間が出始めたとき、正義派ジョンは子供たちの遊びに過ぎないと、公衆の面前で悪魔を否定した。
そして、アビゲイルや子供たちに真相を話すように迫った。
それが裏目にでる。
アビゲイルの愛憎半ばする複雑な心境が、子供たちの奇妙な行動によって倍増され、悪魔払いの村騒動を背景に魔女狩りが進む。
アビゲイルに先導されている子供たちは、魔女騒ぎに二人の愛憎関係を絡め、ジョンの奥さんを魔女に仕立てていく。
奥さんをかばったジョンまで魔女にされてしまった。

 聖教一致だった当時は、信仰の世界で悪魔の烙印を押された者は、世俗の世界でも生きていくことはできない。
聖なる神を信じる人間は、悪魔の存在も信じる。
敬虔な行政官は、けっして悪魔に妥協しない決意である。
彼はアビゲイルの演技を信じ、神に依頼された世俗の正義=法の執行官として、是が非でも悪魔を退治しなければならなかった。
悪魔と契約したのであれば、教会は破門。市民生活の権利は剥奪されるが命は助かる。
しかし、悪魔付きであれば、悪魔を殺すためにその肉体を抹殺する、つまり死刑である。

 アビゲイルとてジョンを死刑にさせたかったわけではない。
状況は彼女の思惑を越えて進んだ。
もはや彼女のコントロールが効かないところまで、展開してしまった。
彼女はジョンと逃げたかった。
しかし、良識派のジョンは、平凡な市民生活を捨てない。
ジョンは教会からの破門を好まず、神の試練につき合っていく決意である。  

 神が自然界に存在する時代は、その解釈をめぐって異端と正当の争いだった。
異端と正当は妥協しながらの併存が可能だが、神が人間の内部に住むと、妥協はなく悪魔の粛正となる。
ジョンは市民でいたかったがめに、死刑になる道を選ばざるを得なかった。
聖教分離は、西洋の血塗られた長い歴史から生み出された、貴重な妥協の産物だった。 

 本格的な作りの映画で、大きな主題を正面からとらえ、大規模な屋外セットを組んで、ニコラス・ハイトナー監督は着実に画面を展開する。
しかし魔女が、現代の何を象徴しているのか不明だった。
そのため、魔女狩りの話ではなく、アビゲイルの復讐劇に終わってしまったのが惜しい。
もし復讐劇なら、アビゲイルの愛憎裏表という動機は良いが、その展開には気力が薄弱である。
アビゲイルが村を逃げ出すのでなく、もっともっと怨念のような執念を持たせて欲しかった。
そうしてこそ、ジョンの奥さんの「私こそ許して」という台詞が生きてきた。

 ダニエル・デイ=ルイスが、農民として鎌を使う場面では、腰が不安定で素人百姓だったが、押さえた演技で上手かった。
ウィノナ・ライダーの熱演は認めるが、優秀な人間の頭脳的な演技で、体にしみこんだ演技ではない。
ジョディー・フォスター的な優秀さを感じるので、年齢が進むと良い役者のなるかも知れない。
1997年アメリカ映画。


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